中島 隆博 | 東京大学 東洋文化研究所 教授 |
COI: | 未確認 |
1665年のロンドンでのペストの流行はおよそ7万人が亡くなった。その時に、ニュートンがペスト禍のロンドンを逃れて故郷に戻り、万有引力の法則などを集中して考察したことはよく知られている。
では、当時のロンドンの状況はどうであったのか。『ロビンソン・クルーソー』で知られるダニエル・デフォーは、それを『ペストの記憶』の中で詳細に論じている。
そこに記されている状況は、驚くべきことに、今般のcovid-19のパンデミックが引き起こしたものとほとんど同じである。たとえば、制定されたた条例の中に、「感染者の出た家屋とペスト患者に関する条例」、「街路を清掃し快適に保つための条例」、「節度のない者たちと無駄な集会に関する条例」といったものがあるが、その中心にあるのは、衛生のための隔離である。
訳者の解題において、武田将明はこの本の醍醐味を「市の行政府が、市民を保護する側面と抑圧する側面を合わせ持つという、秩序の両義性にこそ認められる」(353頁)と鋭く指摘している。
早々とロンドンから立ち去った宮廷や国家権力の代わりに、ロンドン市の行政府や市民がみずから町の秩序を保ったのだが、「市民による、市民のための統治は、ペストという外敵からロンドン全体を守るためならば、何者かを犠牲にすることを決して厭わない」(354頁)といったものであった。家屋閉鎖による徹底した隔離や、貧民たちに危険な仕事を割り当てることがそれである。
もちろん、慈善活動や寄付による支援もなされはするが、全体的なトーンは、ミシェル・フーコーが述べるような、人々の生を管理する「生権力」が、「市民による、市民のための統治」にも貫徹していたことを強調することにある。
「生権力」は、今日のcovid-19に対する各国政府の対応をどう考えるのかにおいても重要な論点となった。イタリアの哲学者であるジョルジョ・アガンベンは、イタリア政府の対応を「生権力」の観点から批判した。
自分の生が純然たる生物学的なありかたへと縮減され、社会的・政治的な次元のみならず、人間的・情愛的な次元のすべてを失った、ということに彼らは気づいていないのではないかと思えるほどである。永続する緊急事態において生きる社会は、自由な社会ではありえない。私たちが生きているのは事実上、「セキュリティ上の理由」と言われているもののために自由を犠牲にした社会、それゆえ、永続する恐怖状態・セキュリティ不全状態において生きるよう自らを断罪した社会である。(ジョルジョ・アガンベン「説明」、『現代思想』2020年5月号 緊急特集=感染/パンデミック新型コロナウイルスから考える、青土社、Kindle の位置No.406-411)
ミシェル・フーコーの「生政治」批判を独自の仕方で継承してきたアガンベンであれば、社会的・政治的な次元と人間的・情愛的な次元を湛えた生から、生存のみの「剥き出しの生」に人々を縮減していくのは、「生権力」のまさに望んだことということになる。ところが、これに対しては、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーが反論を行った。
標的を間違えてはならない。問われているのは、明らかに文明の全体なのだ。存在しているのは、生物、情報、文化の面でのウイルス性の例外化のようなものであり、これが私たちを巻き込んでパンデミック化しているのである。政府はこの例外化の哀れな執行者にすぎない。それゆえ、そのような政府を批判することは、政治的な省察というよりも陽動作戦に似ている。(ジャン=リュック・ナンシー「ウィルス性の例外化」、『現代思想』2020年5月号 緊急特集=感染/パンデミック新型コロナウイルスから考える、青土社、Kindle の位置No.143-147)
ナンシーは、政府は「生権力」を行使しているというよりも、「例外化の哀れな執行者にすぎない」と批判している。わたしたちが直面しているのは、生殺与奪の権を握る強力な「生権力」というよりは、政府自体が右往左往している現実であって、まったく新しい状況ではないのか。実にシニカルな見立てである。
デフォーよりも一世代前であるトマス・ホッブスもまた、ペストの問題を深刻に受け止め、それを彼の主権論と強く結びつけている。
たとえば『リヴァイアサン』の表紙を見ると、ペストで家々が門を閉ざした都市を上から睥睨している。町の中を歩いているのは、武装した衛兵と鳥の嘴を有した防護服を着たペスト防疫の医者だけである。
図表1 |
ホッブス『リヴァイアサン』(1651年)表紙部分 |
図表2 |
ペスト医師 パウル・フュルストの版画(1656年) |
このことをアガンベンはすでにその著書『スタシス』の中で取り上げ、歴史学者であるフランチェスカ・ファルクの解釈を引きながら、こう述べていた。
彼ら〔衛兵と医師〕がエンブレムに姿を見せているということは「選択と排除を想起させ、疫病と健康と主権をイメージのなかで互いに関連づける」(Francesca Falk, Einegestische Geschichte der Grenze: Wie der Liberalismus an der Grenze an seine Grenzen kommt, München: Wilhelm Fink, 2011,p.73)。表象不可能な群がり(マルチチュード)はペスト患者たちの群れにも似て、彼らの服従を監視する衛兵を通じてしか、また彼らを手当てする医師たちを通じてしか表象されえない。(ジョルジョ・アガンベン『スタシス――政治的パラダイムとしての内戦』、高桑和巳訳、青土社、2016年、Kindle の位置No.792-795)
つまり、「疫病と健康と主権」こそが17世紀当時の社会の主要関心事なのだ。そして、キケロの「人民の健康が至高の法であるべきであるSalus populi suprema lex esto」をホッブスが引用して、それを「統治者の任務」であるとしていることに、アガンベンは注意を払ったのである。
「疫病と健康と主権」が21世紀の今、17世紀とまったく同じような仕方で主要関心事であり続けているわけではないかもしれない。しかし、それは形を変えて取り憑き続けている。ちょうど百年前に第一次世界大戦と「スペイン」インフルエンザの流行の後に、世界は現代的な形で「疫病と健康と主権」を実現しようとした。ロバート・N. プロクター『健康帝国ナチス』(草思社、2015年)等が明らかにしてきたように、その一つの結末が全体主義であったのである。
おそらく今必要なことは、健康と権力の関係を変更することである。そのためには健康という概念自体を定義し直さなければならないだろうし、ナンシーがシニカルに論じているように、権力の今日的なあり方をも再考察しなければならないだろう。それが一挙にできないにしても、少なくとも、「健康」や「権力」という概念は変遷してきたものであって、きわめて歴史的なものであることは確認しておいた方がよい。
さきほどのアガンベンの『スタシス』には続きがあり、その健康を統治の任務にしているはずの「人民」についてこう述べられている。
つまり、人民とは、人民としてけっして現前しえない、したがってただ表象〔代表〕しかされえない絶対的現前者のことである。人民を指すギリシア語の用語である「dēmos」から取って、人民の不在を「アデミア」と呼ぶならば、ホッブズの国家は、あらゆる国家と同じく、永続的アデミアという条件において生きていると言える。(ジョルジョ・アガンベン『スタシス――政治的パラダイムとしての内戦』、Kindle の位置No.847-851)
これは重要な箇所で、リヴァイアサンは「永続的アデミアという条件において生きている」すなわち、人民は不在でなければならない、というのだ。訳者の高桑和巳が解説で述べるように、このアデミアは、20世紀には「アドルフ・ヒトラーが口にしたという表現(「人民のない空間(volkloser Raum)」)という形で取りあげられている」(同、Kindle の位置No.1442-1443) ものだ。
そうであるならば、リヴァイアサンや20世紀的な全体主義に対抗する一つの可能性は、代理なしの人民の現前になるだろう。つまり、アデミアではなくパンデミア(すなわち全ての人民)、あるいはその形容詞形でパンデミックであることだろう。パンデミックとしてのデモクラシーすなわちパンデミック・デモクラシーである。
ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルは次のように述べている。
ウイルスのパンデミックの後に必要なのは、形而上学的なパンデミックである。万人がすべてを覆う天のもとにいて、そこから逃れることはできない。わたしたちは今も、これからも、地球の一部である。わたしたちは今も、これからも、死すべき存在であり、弱いままである。
だから、わたしたちは形而上学的なパンデミックという意味での地球市民・世界市民になろう。他のどのような選択肢もわたしたちを絶滅に追いやるし、いかなるウイルス学者もわたしたちを救うことはできないからだ。(マルクス・ガブリエル「精神の毒にワクチンを」、2020年4月、https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8624)
パンデミック・デモクラシーとは、端的に言えば、世界市民のデモクラシーを今度こそ実現することである。
ところが、現在取られている政策は、デモクラシーを成熟していく方向には必ずしも向かってはいないように思われる。依然として19世紀以来の中央集権化された国民国家という想像力の中で、不安げに意志決定がなされているのだ。
かつて宇沢弘文は、専門家に社会から託されたフィデュシアリー(信託)についてこう述べていた。
社会的共通資本は、それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるものであって、政府や市場の基準・ルールにしたがっておこなわれるものではない。この原理は、社会的共通資本の問題を考えるとき、基本的重要性をもつ。社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されているからである。
社会的共通資本は、そこから生み出されるサービスが市民の基本的権利の充足にさいして、重要な役割を果たすものであって、社会にとってきわめて「大切な」ものである。このように「大切な」資産を預かって、その管理を委ねられるとき、それは、たんなる委託行為を超えて、フィデュシアリーな性格をもつ。社会的共通資本の管理を委ねられた機構は、あくまでも独立で、自立的な立場に立って、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負うものでなければならない。(宇沢弘文『社会的共通資本』、岩波新書、2000年、Kindle の位置No.319-328)
フィデュシアリーとは、信頼されて「大切な」ものである「社会的共通資本」を預かることである。宇沢によれば、病院のような医療そして教育はまさに「社会的共通資本」の中心である。医療や大学といったフィデュシアリーの原則に基づくものは、従来の「生権力」とは異なる仕方で、人々に責任を負うべきなのだ。すなわち、「独立で、自立的な立場に立って、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負う」ことである。
その場合には、人間観も大きく変わることになる。「健康」を中核とした人間中心主義が、どれだけ動物や植物そして環境に対して、非倫理的で過度な負荷をかけることによって維持されているのかを考えたい。人間中心主義に基づいて、政治・経済・科学が織り成している現在の社会システムを変え、未来の社会システムを構想しなければならない。
具体的にcovid-19のパンデミックから考えてみると、議論の焦点の一つは、監視社会に陥らずに、しかし適切な情報の共有をどうはかるかにある。プライベートな情報を人々が「自発的」に提供することをそのまま利用すれば、監視社会を作り上げるのはさほど難しいことではない。スコアリングを導入すれば、さらに人々の「自発性」は高まることだろう。
問題は、そのようにして実現可能な「安全」な社会をわたしたちは望むのかということである。ここで問われているのは、人間の生のあり方である。安全に生存できるのであれば、自由や権利がある程度損なわれても仕方がないと考えるのか、それとも安全な生存と自由や権利のトレードオフという枠組み自体を問い直し、人間の生を別の仕方で定義するのか。
わたし自身は、今こそテクノロジーの出番であり、人間の生の条件を豊かに整えることで、安全な生存と自由や権利の普遍化を同時に実現することを望みたい。つまり、監視に導かず、単純化した判断をさせないような、高度なテクノロジーを実現することである。
3.11の後に、科学や技術に対する深刻な不信が広がったことを思い出そう。その核にあったのは、科学や技術が安全な生存を主張すればするほど、それが人間の生の条件を損なっているのではないかという疑問であった。原子力によって作られる電気が、社会的な貨幣となり、それを欲望させる回路ができていたのだが、はたしてそれは人間の生を豊かにしたのか、逆に人間の生を損なう方向性を開いてしまったのではないのか。まき散らされた放射線だけが人間の生を損なったのではなく、当時の科学や技術が前提にしていた安全で安心な社会の構想力自体が人間の生を深く損なったのではないのか。
それは経済のあり方とも連動している。今日の資本主義は、過剰消費のサイクルを無理に回すために、モノやコトにおいて差異を作り上げ欲望を惹起し続けている。それを支えるマインドセットや言説と科学や技術が連動することで、決して実現することのないイノベーションへの信仰が生まれもしたのである。
こうしたなかで、人間の生は科学や技術そして経済による管理対象になってしまった。しかし、科学や技術そして経済は本来、人間の生の条件を豊かにするものではなかったのだろうか。そして、それらにはそれだけの力が備わっているのではないのだろうか。
コロナウィルスという「未知」なるもののパンデミックは、このようにすでにわかっていた「既知」の問題をあぶり出している。格差、貧困、差別、非倫理的な大量消費、制度疲弊、神話化された科学主義の弊害はすでに十分知られていた。ところが、わたしたちは、それらに対する手当てを怠り続けてきたのである。
京都大学の広井良典はこの間、分散型システムへの移行を唱え続けてきた。
つまり現在の日本において進みつつあるのは「少極集中」と呼ぶべき事態であり、これは感染症の伝播という点ではリスクの大きい構造であって、現にこれらの”密”地域において感染が拡大している。こうした構造を、より「分散型」のシステムに転換していくこと、具体的にはドイツのような「多極集中」と呼べる国土構造に転換していくことが重要であり、それはコロナのようなパンデミックへの対応においてもきわめて重要な意味をもつだろう。(「分散型システムへの転換を 顕在化する「都市集中型」社会のリスク」、事業構想大学院大学『事業構想』、2020年7月、https://www.projectdesign.jp/202007/for-guess-after-covid19/008005.php)
広井は、都市集中型システムと分散型システムが日本にどのようなインパクトをもたらすかというシミュレーションをすでに行っており、前者の危険性を指摘していた。covid-19はその危険性を目に見える形で明らかにしたのである。
パンデミック・デモクラシーは広井の言う分散型システムにおいてこそ可能になる。というのも、そこでは人々の生の実情にきめ細かく沿った意志決定がなされる必要があるからだ。ルソーが構想したような中央集権的なデモクラシーではなく、トクヴィル的な分権型デモクラシーをもう一度見直してみたい。後者はかつてのアメリカに見出されたものである。
歴史上の疫病がそうであったように、covid-19もまた、わたしたちの社会のあり方や生のあり方をあらためて考えさせている。とりわけ、意志決定とは何であるのか、何であるべきなのかが深く問われている。
わたしたちはしばしば、可能性の延長で考えがちである。今の条件であれば、何ができるのかという形で考え、意志決定を行うのだ。しかし、条件自体を変更しなければならないとすればどうだろうか。来るべき未来がどうであれば望ましいのかから考え、その上で意志決定を行ってみればどうだろうか。
宇沢の言うフィデュシアリーの原則に基づくものは、医療や大学だけではない。社会的インフラストラクチャーや、金融・行政・司法もまたそこに含まれる。しかし、こうした「社会的共通資本」が今やレジリエンスを失いつつある。今後しばらくcovid-19との共存が続くのであれば、わたしたちはもう一度「社会的共通資本」の整備に手をかけるべきではないだろうか。それなしには、適切な意志決定は望むべくもない。