島薗 進 | 上智大学大学院実践宗教学研究科 委員長上智大学グリーフケア研究所 所長 |
COI: | なし |
新型コロナウイルス感染症が中国の武漢で猛威を振るった時期から、「医療崩壊」という言葉が登場し、その後、頻繁に使われるようになっている。では、「医療崩壊」とは何か。小松秀樹氏が『医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か』(朝日新聞社)[5]を刊行したのは2006年、本田宏氏が『誰が日本の医療を殺すのか―「医療崩壊」の知られざる真実』(洋泉社)[2]を刊行したのは2007年のことである。
「ウィキペディア」では、「医療崩壊とは、医療安全に対する過度な社会的要求や医療への過度な期待、医療費抑制政策などを背景に」、「医師の士気の低下、防衛医療の増加、病院経営の悪化などにより、安定的・継続的な医療提供体制が成り立たなくなる」状況を指すが、学術的な吟味がなされていないという意味を込めて「俗語」だとされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/医療崩壊、2020年8月1日)[12]。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行下で懸念されている「医療崩壊」は少し意味が異なる。東京医科歯科大学市川総合病院の循環器内科の大木貴博医師は、同病院のホームページに2020年4月25日付で「新型コロナウイルス感染症による医療崩壊とは」という文章を掲載しているが、そこでは、「医療崩壊とは、必要とされる医療資源が、供給できる医療資源よりも多くなること……(医療資源の需要>医療資源の供給)」と簡潔な定義を示している(http://www.tdcigh-circ.jp/news/news_02.html)[9] 。
このような概念が新たに登場したものだとすると、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は感染力がきわめて強く、重症化する場合の治療が容易でなく、感染爆発に対する対応が困難であることが背後にある。「医療崩壊」は新型コロナウイルス感染症の特徴と関わって、新たに用いられるようになった用法である。同様のことが「トリアージ」についても言えるかもしれない。まずは「トリアージ」の新しい用法に、衝撃を受けた人たちの声を聞いてみよう。
NHKのEテレで木曜日の夜八時から「バリバラ」という番組がある。ウェブ上で番組紹介を見ると、「生きづらさを抱えるすべてのマイノリティー」にとっての“バリア”をなくす、みんなのためのバリアフリー・バラエティー「バリバラ」」とキャッチフレーズが掲げられている。この「バリバラ」で5月7日に「生放送 新型コロナ V7★世界テレビ会議」が放映され、その内容が番組のホームページに掲載されている(https://www6.nhk.or.jp/baribara/lineup/single.html?i=1329)[8]。
「V7」とは「Vulnerableヴァーナラボーな七人」、つまり「難儀な状況にさらされやすい七人」が語り合うという意味だ。その一人は、イタリア政府コロナ対策委員会のメンバーで、車いすユーザーのジャンピエロ・グリッフォさんだ。そういえば、日本では政府の対策に関わる委員会にこのような立場の方が入っているだろうか。日本の政治に関心をもつ者として省みるべき事柄だ。そのグリッフォさんが言う。
「イタリアではシチリアや北部の施設が厳しい状況です。亡くなった人の半数は、隔離された施設の高齢者や障害者たちなんです。」 「ひどいです、本当に残酷です。もし地域の中に暮らしていたら、もっと守られたでしょう。でも施設の中となると、どんな状況なのか、誰にも分かりません。障害者は見えない存在とされているのです。みんなが大変な状況の下では、誰も障害者のことを気にかけなくなるのです」
イギリス在住のジョン・ハスティーさんは筋ジストロフィーで人工呼吸器ユーザーだが、新型ウイルスに関わるトリアージ基準は、合理的な体裁を整えて登場するが、実はそもそも科学的根拠がないのだと指摘する。
「私が嫌なのは、トリアージの基準が科学的根拠に基づいていないということなんです。まだ(新型コロナウイルスについての)データがない状況なんです。どんな人が回復するかも回復のスピードもわからない。確かに、“助からない命に医療資源を割くのは無駄だ”というのもわかります。でも、(助からないと)判断する根拠はなんなのでしょうか?」
インドに住み、外出できない日々の生活を動画配信しているインフルエンサー(影響力の大きい行動を行う人)のヴィラリ・モディさんも、トリアージをめぐる議論には、大きな前提が見落とされていると指摘した。
「私たち人類は、これまでにいくつもの伝染病を経験していますよね。スペイン風邪、ポリオ、はしか、天然痘、水疱瘡、エボラ、いっぱい思いつくでしょう? 実は、パンデミックに備える時間は、これまでにたっぷりあったんです。医療資材や人工呼吸器を揃えることができたはずなのに、なんで今、足りないのか? なぜ障害のある人や人工呼吸器を必要とする人が、“誰が生き残り、誰が死ぬか”、なんて話になっているのでしょうか?」
前出のジョン・ハスティーさんは、トリアージの議論に入る前に立ち止まって考えてほしいと訴た。
「トリアージありきの議論は危険です。受け入れていることになりかねません。トリアージは、本当に最後の最後の手段です。私が気になるのは、いくつもの機関が早々にガイドラインを出してきたことです。ガイドラインは、障害者を切り捨てる口実を与えているようなものです。障害者への偏見は今もあります。偏見をもとに、命を選ぶ判断がなされかねないのです。」
では、「トリアージ」とは何か。この言葉は、フランス語の「trier(選別する、選り分ける)」に由来する。医療に関わってこの語が用いられたのは、ナポレオン戦争のときからだ。戦地では、傷病者をどの順番で輸送し治療するかの順位づけをせざるをえない。その後、「トリアージ」は範囲を広げ、現在では救急医療や災害救援において通常用いられる概念となっている。
災害や事故の現場で多くの傷病者がいた場合、
と優先順位を付ける。それぞれの傷病者にタグをつけるが、それぞれ1が赤、2が黄、3が緑、4が黒である。第4段階に振り分けられると、医療機関への搬送は最後に回される(山崎逹枝『災害現場でのトリアージと応急措置』第2版、日本看護協会出版会、2016年)[13]。「死亡群」とされるということは、医療的には「見放された」ということになる。
新型コロナ感染症では医療崩壊の危機が度々、報じられている。実際、中国の武漢でも、米国やイタリアなどでも重症者用のベッドが足りなくなり、見放され、見捨てられて死んでいかざるをえない人が多数出てしまった。
他方、こうした危機的状況がやってくることは十分予想できることなので、早くからトリアージのロジックを拡張して、一定範囲の人々は「死亡群」に振り分ける態勢をとっている比較的豊かな国がある。スウェーデンはその典型で、ふだんから集中治療室に空床がない場合、八〇歳以上の人や基礎疾患のない人は集中治療室の適用外という判断が早期に下される。ところが、新型コロナ感染症では、たとえ空床があっても集中治療室の適用外と判断するのが常態化した。これが裏目に出て、高齢者施設ではPCR検査が控えられた時期もあり、たくさんの高齢者が亡くなった(「スウェーデン新型コロナ「ソフト対策」の実態。現地の日本人医師はこう例証する」Forbes JAPAN 2020年5月7日、https://forbesjapan.com/articles/detail/34187)[6] 。
高齢者の治療を控えるという選択はオランダでも取られた。ここでは七〇歳が区切り目だという。しかし、これに対しては、障害者などから多くの批判の声があげられ、制度化が挫折した国もある。東京大学大学院教授で死生学応用倫理センターに所属する堀江宗正氏によると、「障害や病気を理由に人工呼吸器を装着しない方針は、米国アラバマ州、英国、ルーマニアなどで策定されかかったが、抗議を受け取り下げられた」という(「早すぎるトリアージを許すな 人間性の放棄につながる懸念」『中外日報』2020年7月10日)[3]。
NHKのバリバラでの発言はそうした事情を反映したものだ。「いのちの選別」を年齢の基準で許容すれば、他の基準に及ばないという保障はない。治療によって回復する見込みが相対的に大きくない、とか余命が他の人より短いとか見なされると回復のための医療措置を受ける範囲からはずされてしまうことになりかねない。糖尿病や心臓疾患やがんで治療が続いている人も同様の怖れをもつだろう。なぜ、年齢だけなのか、という問いに答えるのは容易でないはずだ。
日本でも集中治療室(ICU)で装着される人工呼吸器の不足が懸念されている。すでに3月30日に、生命・医療倫理研究会有志が連名で「COVID-19の感染爆発時における人工呼吸器の配分を判断するプロセスについての提言」を公表し、4月1日の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議記者会見で紹介した。この提言では、まず「人工呼吸器が不足しており、人工呼吸器を装着する患者の選択を行わなければならない場合には、災害時におけるトリアージの理念と同様に、救命の可能性の高い患者を優先する」としている[11]。同じコロナ感染症の重症の場合、高齢者や他の疾患があったり障害があったりすると、「救命の可能性」がより「高くない」と見なされ、治療されないことになる。
また、「救命の可能性がきわめて低いとまでは言えない患者から,人工呼吸器の再配分のために人工呼吸器を取り外す場合」についても詳しく述べている。人工呼吸器を取り外してもよい,ただし「本人の同意(本人の事前の意思表示や家族等による意思の推定を含む)を前提とすることを原則とする」としている。まだ、助かる可能性がある人でも、余命がさほど長くないと見なされた場合、同意があれば人工呼吸器を取り外してよいことになる。これは平常時には生命倫理上、認められないはずだが、コロナ感染症による危機的状況では許容できるというのだ。
大阪大学人間科学研究科未来共創センター招へい教授で循環器科が専門の石蔵文信氏はこの提言を受け、「集中治療を譲る意志カード」を作り、普及を呼びかけた。また、4月23日には以下のような文章を公表している。
「新型コロナウィルスの重症患者さんを治療する医療関係者は大変ですが、医療崩壊した現場で「命の選択」をするのは精神的な重圧があります。日本集中治療学会はECMO(人工肺)に関しては「年齢65-70才以上は予後が悪く,一般的には適応外」としています。辛いことですが、諸外国のように政府や関係学会が「命の選択」に関してある程度の指針を示す事は現場の医療関係者の負担を減らすために必要と感じます」(Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/profile/author/ishikurafuminobu/comments/、2020年8月1日参観)[4] 。
「いのちの選別」に積極的に備えることを唱える3月30日公表のこの提言に対して、抗議の声があげられている。4月11日には、障害者の権利を守る活動に取り組んでいる団体(DPI日本会議、全国自立生活センター協議会)などが、安倍首相に宛てて「新型コロナウィルス対策における障害のある者への人権保障に関する要望書」を提出している(http://dpi-japan.org/blog/demand/新型コロナウィルス対策における障害のある者へ/)[1]。
そこでは、「医療従事者の間で「誰に人工呼吸器を配分するべきか」というルール作りのための議論が始まっていることに、私たち障害者は大変な危機感を抱いています」とある。そして、「優生思想につながる障害を理由とした命の選別が推進されることがないようにしてください」とし、医療機関のコロナ感染症受け入れ態勢を拡充する、人工呼吸器を増産するなどして、「いのちの選別」が起こることのないように十分に備えることを求めている。
「COVID-19の感染爆発時における人工呼吸器の配分を判断するプロセスについての提言」では、「性別、人種、社会的地位、公的医療保険の有無、病院の利益の多寡(例:自由診療で多額の費用を支払う患者を優先する)等による順位づけは差別であり、絶対に行ってはならない」としている[11]。だが、予測される余命が長いか短いかで選別することは差別ではないだろうか。多くの障害者がそれを差別だと感じ取っている。これは日本だけのことではなくて、「バリバラ」で紹介されたように世界各地でも同様のことが起こっている。
「役に立たないいのちは存在理由がない」という考えで障害者を殺害した事件も起こったことは記憶に新しい。2016年7月、相模原市の津久井やまゆり園で、45人の障がい者が殺害または傷害された事件である。だが、多くの人々は「いのちの重さは比べられない」、「どのいのちも尊くかけがえがない」と信じている。「トリアージ」の限界を考える際、忘れてはならない視点である。
この「トリアージ」をめぐる問題について、日本医師会COVID19有識者会議に6月18日の段階で、「トリアージュの医療」という文章を寄せているのは、東京大学・国際基督教大学名誉教授で科学史が専門の村上陽一郎氏だ。 村上氏は戦場でのトリアージに遡って、非常時のトリアージが医療の倫理の根本に関わる困難な問題であることを示している[7]。戦場と野戦病院での選別が第一相、第二相となるが、治療を急ぐ順が上位の赤タグ、黄色タグと、さしあたって放置される青タグ(緑タグ)、黒タグに分けられる。
「黒タグは、生命の徴候は残っているものの、処置は〈無駄〉と判断されるもの」となる。「問題は黒タグである。医療者として、救命を必要としている対象が目の前にあるのに、可能と思われる一切の処置を放擲して、ただ、死に赴くのを手をつかねたままにする、ということは、その根本理念に悖る行為に違いない。その行為を強制されるのが、非常時ということになる」。医療の根本理念に悖る行為をせざるをえないことをどう受け止めるのか。村上氏は新型コロナ感染症でのトリアージの問題をこのような問いとして考察している。
その結論は、「「ベスト」な解を諦め、「ベター」な解を探し当てようとする方法を、理念化すれば「機能的寛容」に通じる。医療における機能的寛容という概念が、必要と考える」と要約されている。「機能的寛容」についての説明は多くなく、必ずしも明快な解答ではない。だが、そもそも明快な解答がない問いであることが示唆されているとも受け取れる。
では、3月30日に政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議によって公表された、生命・医療倫理研究会有志による「COVID-19の感染爆発時における人工呼吸器の配分を判断するプロセスについての提言」(以下、「人工呼吸器配分提言」と略す)は、この難問についてどう応じようとしているのか。これについては、齊尾武郎氏が踏み込んだ考察をしている(「COVID-19人工呼吸器配分提言を巡って」『臨床評価』48巻1号、2020年)[10][11]。
齊尾氏が示すように、「人工呼吸器配分提言」は「COVID-19の感染爆発時における」人工呼吸器配分を「非常時」ではなく、通常の終末期患者に対する救急・集中治療の倫理の枠に沿って行うことを方針としている。そこで特徴的なのは、「人工呼吸器の取り外し」による「再配分」を行う手順について、詳しく検討し、提言していることだ。そこで推奨されている事項は、齊尾氏によると、次の2点だ。
前者は、インフォームド・コンセントの原則にそって、死を選ぶことを当事者に是認させる手順である。また、後者は生き続ける可能性がある人の死を引き起こす行為の是認である。もっと生き続ける可能性が高い他の人を救うための選別ではあるが、比較して生と死を選り分けることになる。
では、このような基準は妥当だろうか。齊尾氏は1)について、優越的な立場にある医療従事者が、患者自身にいのちを放棄するという不利な判断を求めることは倫理的とはい言えないこと、また、自死の選択を迫ることにも匹敵する判断を短時間でしようとするもので、患者自身の自由意思による決定ができるかどうかもあやしいと、批判的である。
また、2)について、齊尾氏は、救命・生命の存続が困難な人の人工呼吸器を外す行為は、消極的安楽死に相当し、法的・倫理的に論争があり、わが国ではまだ法的な正当性は付与されていないことだという。「人工呼吸器配分提言」は、それを「COVID-19の感染爆発時における人工呼吸器の配分を判断するためのフローチャート」の形で定式化し推奨している。これは、a)「消極的安楽死に関する長年の法的・倫理的議論を捨象している他、人工呼吸器を外すという判断をする者たちの良心の葛藤がこのような定式化がされていない場合よりも生じにくい可能性がある」点で妥当ではない。
齊尾氏はまた、b)「治療を継続すれば救命・生命の存続の可能性のある患者の人工呼吸器を外す判断を行うことも許容しており、消極的安楽死よりも一歩踏み込んだ(あるいは、越えてはならない一線を越えた)ものである、その正当性は厳しく問われねばならない」とも述べている。そもそも「人工呼吸器配分提言」は、医療崩壊に陥ったような非常時状況で行われる判断を、終末期の「救命の可能性がきわめて低い状態」の患者に対する治療停止の判断についての基準から引き出そうとしおり、そこに無理があると捉えている。
新型コロナ感染症(COVID-19)の急激な感染拡大が起こり、「医療崩壊」状態に陥ると、医療従事者は「非常時」の状態に追い込まれ、いのちの選別を強いられることになる。村上陽一郎氏が言うように、「ただ、死に赴くのを手をつかねたままにする、ということは、その(=医療の、島薗注)根本理念に悖る行為に違いない。その行為を強制されるのが、非常時ということになる」わけである[7]。
その際、新型コロナ感染症で死にゆく人やその遺族とともに、医療従事者も「いのちを見捨てる」「見放される」という場面に立ち合わざるをえなくなる。多くの医療従事者にとっては、耐えがたいことであろう。母体保護法による人工中絶のように、そのような行為が許容されている場合がないわけではない。が、それはあくまで生まれてくる前の早期のいのちに限った例外的な場合としてである。村上氏は死に瀕する重い障害を負って生まれた子供の例をあげているが、これも例外的な事態である。
だが、村上氏も指摘しているように、助ける可能性がある人をも見限ることは医療の原則にはない。戦場や災害救援時には例外的にそうせざるをえないことが生じる。このようなことは本来、あってはならないことで、できるかぎり避けるべきことだ。そのために最大限の力を注ぐことこそ、政府や医療・公衆衛生体制が行うべきことである。
とはいえ、万が一そうなってしまった場合、そこで、もっと余命や治癒可能性の高い人のために、まだ生き延びる可能性のある人に「黒タグ」をつけることを正当な行為として定式化できないか。他の人にいのちを譲るべき人を選び分け、その人工呼吸器を取り外すことを合理性をもった倫理的判断として示せないか――これが、「COVID-19の感染爆発時における人工呼吸器の配分を判断するプロセスについての提言」の意図するところだ。だが、齊尾氏が指摘しているように、それは現在の生命倫理の諸原則に照らしても、無理を抱え込まざるをえないものである。
「人工呼吸器配分提言」は「非常時」に追い込まれた医療従事者が、いのちの選別を避けられなくなったとき、そのいのちの選別が「恣意的にならない」ようにし、妥当であると理解されるようにする、また、そのようにして医療従事者の苦悩を和らげ、死を早めたことの罪を問われるようなことがないようにする、という意図に動機づけられている。その善意はよく理解できる。
だが、救命不能であるかどうかが不確かであるにもかかわらず「黒タグ」を付けることを、何らかの規範に基づく正当な判断とするのは妥当なことだろうか。弱さゆえに「黒タグ」を付けられる可能性が高いと感じている人がそれを脅威と受け取るのも避けがたいところだ。だからこそ、いざというとき「見放され」、「見捨てられる」かもしれないと感じている障がい者や重い疾患を抱えて生きている人々から強い疑問の声が寄せられているのだろう。
「いのちの選別」を正当化する論理は、弱い立場の人の排除を是認する論理となる可能性を排除できるだろうか。今や「より強い人を選んで産む」というような「新しい優生学」が是認される傾向が強まっている。生物学的に弱い人が「淘汰され」ていくことを是認する動向である。その動きとも関連するものと受け止められている。
これまでも戦場や災害の現場では、やむをえず「助かる人を選り分ける」ことが行われてきた。そうした場合、医療従事者がそれによって罪を負わされることはなかった。それは村上陽一郎氏のいう「機能的寛容」ということかもしれない。だが、それを正当な規範に基づく行為として制度化することは妥当だろうか。大いに疑問がある。
何よりも重要なことは、そのような「いのちの選別」が起きてしまうような状況が生じないように、また、どのいのちもが尊ばれるように、十分な感染症対策を講じ、公衆衛生や医療の環境を整えていくことである。これは、「人工呼吸器配分提言」もその冒頭で述べていることである。だが、それが不十分な段階で早々と「トリアージ」が唱えられるとき、「いのちの選別」の是認という懸念を招かざるをえないだろう。
「人工呼吸器配分提言」の冒頭では、まず「医療崩壊」を「非常時」として特徴づけている。そして、「このような非常時は、災害時医療におけるトリアージの概念が適用されうる事態であり、これまで私たちが経験したことのない大きな規模で、厳しい倫理的判断を求められることになる」と述べている。おそらく戦場ではこうした事態は度々生じていたので、「私たちが経験したことのない大きな規模で」と言えるかどうか疑問である。
続いて「人工呼吸器配分提言」は重要な主張を行なっている。「これは、一人ひとりの患者に最善をつくす医療から、できるだけ多くの生命を助ける医療への転換が迫られるということである」と。ここでは、「できるだけ多くの生命を助ける」という倫理基準が提示され、それは「非常時には」という限定をつけてではあるが、「いのちの選別」を正当化する倫理基準であることが示されている。「できるだけ多くの生命を助ける」ために、長期的生存の可能性が低い人は「黒タグ」を付けられるというものだ。
しかし、災害時などの「非常時」に医療従事者が行なっている判断は、「できるだけ多くの生命を助ける」という基準に基づくものなのか。多数の患者の「一人ひとり」に最善を尽くそうとしてやむを得ず選ばざるをえないことがある、と捉える方が妥当ではないだろうか。また、平常時においても「できるだけ多くの生命を助ける」という基準がある領域ではそれなりに生きていないだろうか。以上のように考えると、「医療崩壊による非常時に、一人ひとりの患者に最善をつくす医療から、できるだけ多くの生命を助ける医療への転換が迫られている」という記述についても再考が必要なように思われる。
この稿の最初に紹介した、NHKEテレの「バリバラ」のなかの以下の言葉は重い。「トリアージは、本当に最後の最後の手段です。私が気になるのは、いくつもの機関が早々にガイドラインを出してきたことです。ガイドラインは、障害者を切り捨てる口実を与えているようなものです。」医療従事者はこの難問に苦悩せざるをえない。「いのちの尊さ」について考える機会が多い人文社会系の研究者も、現代社会が抱え込まざるをえない重い問題として、そのときほぐしにともに取り組むべきだろう。