清家 篤 | 日本私立学校振興・共済事業団理事長・ 慶應義塾学事顧問 |
COI: | 未確認 |
当有識者会議から当方の専門分野からの政策提言を求められた。私の専門分野は労働経済学で、労働に関することを経済学で分析する学問である。その視点から見て、いま私たちの直面している逆境を克服する核となるのは、「人的資本」に他ならない。
私たちは、これまでの歴史の中で多くの逆境を経験してきた。それらの逆境を克服するのに最も寄与したのは、私たち自身、経済学の言葉で言えば、何かをなす能力を持った「人的資本」であった[1]。たとえば日本の歴史で最も大きな逆境の一つ、太平洋戦争による都市破壊である。日本やドイツなどへのアメリカ空軍の戦略爆撃の影響を分析した調査によれば、戦略爆撃によって建物や設備など物的資本の多くを破壊され焼け野原になった大都市でも、多くの住民、すなわち人的資本さえ残っていれば、その回復は予想以上に早かったようだ[2]。
逆に今回の緊急事態宣言下で、建物や設備など物的資本の量は不変であるにもかかわらず、経済は大きく落ち込んだのは、人の活動、人的資本の稼動率の低下によるものだ。従って現状からの回復は、いかに人的資本を健全に保ち、その活動を可能にする状況を作り出すかにかかっている。人々の健康を守り、予防や治療の方策を講ずることは、その意味でも不可欠であり、健康か経済か、というトレードオフではなく、まさに健康と経済は一体のものと考えるべきである。
今回の事態と人的資本の関係という視点で、何よりも良く分かったのは、医師、看護師、薬剤師、コメディカルの方々など医療にかかわる全ての医療従事者、すなわち日本の医療人材の質の高さであろう。これまでのところ何とか乗り切ってこられたのは、しっかりとした医療施設、医療設備によるところは勿論だが、それとてもそれらを使いこなす医療従事者の力量なしにはありえなかった。高い志、高度な医療技術、そしてその基礎となる学問的知識という、いわば心技知の揃った、世界に冠たる日本の医療人材の底力を、私たちは改めて確認したところだ。
次の波に備えられるかどうかも、第一義的にはこの医療従事者の活躍にかかっているといっても過言ではない。私たちは、社会全体として医療従事者にその能力を遺憾なく発揮してもらえるような条件を、しっかりと整備することに政策資源を最優先で注力しなければならない。
そのためにまず何といっても大切なことは、医療人材の安全と健康を確保することだ。私たちの社会にとって掛け替えのない人的資本である医療従事者に活躍してもらうために最も避けなければならない事態とは、その一人でも失われたり、健康を害してその能力を発揮できなくなったりすることだ。厳しい状況の下でも、医療従事者が安心して、元気にその能力を発揮できるよう、まず防護資材確保などは政府の責任において、まず何をおいても真っ先に実現し、医療従事者に安全についての憂い無くその能力を発揮してもらうようにすべきである。
その上で大切なのは、そうした医療従事者の雇用保全だ。先に、今回の緊急事態宣言下で、建物や設備など物的資本の量は不変であったと述べたけれども、実は医療機関については、専用病棟を区切ったり、4人部屋を一人で利用したりといったように、利用できる物的資本の量は減ってしまっている。また検査や防護資材確保などに予定外の費用を要するだけでなく、高い収入を得られる高度な手術といったものは軒並み延期、中止されるという機会損失のため、国や地方自治体に積極的に協力した医療機関ほど経営的に厳しくなっている。社会に貢献した医療機関ほど経営的にも疲弊してしまうといったことは、次の波に備えるためにも、あってはならないことであろう。
経営的に厳しくなれば、医療従事者の安全確保策も十分行えなくなり、最終的にはその雇用や労働条件も維持できなってしまう。次の波に備えるために、掛け替えのない医療従事者の安全と雇用を守っていかなければならないことは明らかだ。そのためには医療従事者を雇用する医療機関の経営安定は欠かせず、そのための十分な政策的支援は当面喫緊の課題といえる。
次の波の到来時に、今回のような医療従事者の疲弊を招かない方策も考えなければならない。緊急時には人々の医療従事者への期待は高まる一方で、長い教育訓練期間を要する医療従事者の数をすぐに増やすことは困難だ。すでに長時間労働となっている医療従事者をさらに疲れさせることなく、かつそれでも国民にとって安心できる医療サービスを確保するためには、医療の生産性を上げるしかない。ここで一つ期待されるのは、新しい技術の活用である。
すでに一部実用化されているICTを使った遠隔診療や、AIを使った診断などを活用することで、医療従事者にはその人的資本としての能力を最大限に発揮できる仕事に集中してもらうようにする、ということである。これらは医療従事者の負担を軽くすると同時に、受診者の負担も軽くする。こうした技術を導入する医療機関への政府の政策的な支援を行うことも必要であろう。
中長期的には、医療従事者の育成の強化もきわめて重要だ。医師、看護師、薬剤師、検査技師などの教育をさらに充実していくということ。現在の緊急事態下では、大学病院などは政府や地方自治体などから要請された危機対応を行うことに手一杯で、医学生や、看護学生などの教育に必ずしも十分な時間と資源を割けなかったかもしれない。日本の高い医療教育の水準を維持、向上されせるために、政府は教育助成の拡充なども含めて、医療系教育機関へのより積極的な支援を惜しむべきではないと思う。
経済社会全体を逆境から回復させるためには、全ての働く人々の状況を改善しなければならない。ここでもまず第一は、その生命、健康の確保であろう。その意味で、「ニューノーマル」の考え方に沿った働き方改革はとても大切である。
最も大切なポイントの一つは「密」を避けるということで、そのためには、在宅勤務の拡大、出勤する場合でも時差出勤の徹底といったことはきわめて重要だ。基本は在宅勤務というところまで、文字通り劇的に在宅勤務、テレワークを増やすべきであろう。それは当事者の健康、安全のためだけでなく、街や交通機関などの人口密度を下げることによって、社会全体の安全や健康を守るためにも有効である。そうした多くの働く人たちの、健康を維持することは、医療従事者の負担軽減にも大きく寄与することは言うまでもない。
もちろん仕事の内容によって在宅勤務は困難である場合もある。もっとも必要とされている医療や介護・保育、そして消防、警察などの社会の安全や秩序を維持するための仕事は、在宅というわけにはいかない。工場での生産や交通機関による輸送など設備と一体となった仕事も同様だ。人々の生活維持に不可欠の食料品など生活必需品の流通販売、電気、ガス、水道、情報通信などのライフラインの保全、廃棄物の収集といったことに携わっている、いわゆるエッセンシャルワーカーの方々の仕事も在宅は難しい。
在宅で可能な仕事はできるだけ在宅で行うことは、そのような出勤せざるをえない人たちの安全向上のためにも大切である。この点で、実際に緊急事態宣言解除後も在宅勤務を一定割合続けようとする企業の多いことは、とても心強いことだ。また仕事の内容から在宅勤務の難しい仕事の場合でも、シフトの工夫などで、時差出勤を進めることなどは可能であろう。
在宅勤務推進のためには、印鑑を押すためだけに出勤しなければならないといったこともないようにしなければならない。取引や監督官庁とのやり取りに書類や、直接の面談を必要としないように、オンラインで仕事を完結できるように商慣行、行政手続きなどを抜本的に見直すことも不可欠である。
これまでの働き方を変えるということは、働く人本人だけでなく、その他の全ての働く人々、そして医療従事者の負担軽減なども含めた、社会全体の安全にとって大きなメリットとなる。在宅で仕事をできる人は、できるかぎり在宅勤務するということは、まさにそのこと自体、社会への大きな貢献となっていると考えるべきなのだ。出勤する人もいるのに自分は在宅勤務で心苦しいといったことを間違っても思わないですむような、社会的な共通認識を形成すべきだと思う。
国民誰しも様々な疾病、傷害のリスクを持っている。その時になによりも大切なことは、必ず適切な医療を受けられるということだ。病気になったり怪我を負ったりしても、医療によって治癒回復できるなら安心できる。日本の素晴らしい、質の高い医療をなんとしても維持し崩壊を防ぐ、このことに今は集中すべきだ。
何かあっても心配なく働けるということの価値を、今回の事態で私たちは改めて確認した。もちろんこれは万国共通の価値だ。しかし特に日本のような、人的資本こそ最も大切な経済資源である社会では、これはなおさらのことである。
逆境から経済社会を蘇らせるためには、人的資本の能力を最大限に発揮しなければならず、その大前提は医療体制の充実なのである。その意味で喫緊の経済政策は、医療従事者の安全を確保し、疲弊を解消し、そして次の緊急事態に対応してもらわねばならない医療機関の経営をしっかりと支えること。まず医療体制充実に集中的に資源を投じれば、あとは安心して働けるようになった質の高い人的資本である日本人の力をもってすれば、経済社会は必ず回復していく。「人的資本活用のためにも医療充実を」という本稿表題には、その意味を込めた。
本稿の執筆に際して、畏友竹内勤教授、本有識者会議副座長笠貫宏教授から有益なコメントを頂きました。記して感謝の意を表します。もちろん有り得るべき誤りは、すべて筆者の責任に帰するべきものです。