日本医師会 COVID-19有識者会議
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トリアージュの医療

村上 陽一郎東京大学・国際基督教大学 名誉教授
COI:未確認
注:この記事は、有識者個人の意見です。日本医師会または日本医師会COVID-19有識者会議の見解ではないことに留意ください。
  • 今回のCOVID-19禍では、世界的にみれば、非常時と言うべき事態が起こった地域があり、日本でも起こりかけた。
  • 例えばICUのベッド数に限りがあり、種々のレスピレーターの数にも限りがある、そこへ詰めかけた患者群がある、その中で誰を優先的に、濃厚治療にかけるか。このような判断をトリアージュと呼ぶ。
  • トリアージュには、人間の命の平等性を至高の価値と仰ぐ、現代社会の直面する最大のディレンマがある。このディレンマへの決定的に「ベスト」な解決策は見当たらない。
  • 「ベスト」な解を諦め、「ベター」な解を探し当てようとする方法を、理念化すれば「機能的寛容」に通じる。医療における機能的寛容という概念が、必要と考える。

原理的な場面

トリアージュとは、大事故・災害などで同時に多数の患者が出た時に、手当ての緊急度に従って優先順をつけることである。医療でトリアージュが必要になるのは、先ずは戦場である。戦場におけるトリアージュは、通常二相に分かれる。戦場で衛生兵が判断する相で、野戦病院に送り込む負傷者の順番を一瞬に選別する。野戦病院では第二の相で、誰から治療を施すか、の順位決定である。いわば院内トリアージュの段階ということができる。選別は、通常はタグを付すことによって行われる。最優先で病院に送り、最優先で治療を施す負傷者には赤タグを、次の順位の相手には黄色タグを、差し当たって放置される相手は、二つに分かれる。黒タグは、生命の徴候は残っているものの、処置が<無駄>と判断されるものであり、青タグは、差し当たり緊急な処置を必要としないと判断される場合に使われる。この判断は、医療機関(戦争の場合は、通常野戦病院)に対象が到着した際に、第二相としてもう一度行われる。

問題は黒タグである。医療者として、救命を必要としている対象が目の前にあるのに、可能と思われる一切の処置を放擲して、ただ、死に赴くのを手をつかねたままにする、ということは、その根本理念に悖る行為に違いない。その行為を強制されるのが、非常時ということになる。

戦争から解放されて七十五年の日本では、この種のトリアージュは、野戦病院とともに、過去のこととして葬り去られた。しかし、それでも似た事態は、地震や洪水、火山の噴火などの災害時に起こり得る。戦時のトリアージュは、戦傷を負った人間が、治療を施せば、戦線に戻れるか否か、という判断基準も働くと言われる。災害時に、この配慮は無縁であろう。要は、医療リソースの逼迫状態についての判断が、専ら事を決める。

もっとも、あまり表向きにはされない、あるいは出来ないことではあるが、新生児の場合に、たまたま類似の状況が発生する。「極度の障碍を以て生まれてきた、助けの手を差し伸べなければその場で確実に死に向かう畸形児を前に、それでも最大限の救命、延命の努力を注ぐ」、それが医療の理念ではあるが、むしろ、「その行為が、両親に当たる人々にとって、あらゆる面で苦痛でしかない、しかも、その延命の結果がどれだけの時間を保障できるものでもない」、という場合、取り上げた医療チームは、一切の延命処置をおさめて、そっと放置する(両親には、残念ですが死産でした、という報告とともに)、という事例は、少なくともかつては、決して少なくなかった、とは、明治生まれの病理医であった父親の言である。今、このような事例が、かつてより少なくなっていることは確かだが、絶無であるかどうか。これも非常時と言えなくもない。

コロナ禍でも 

今回のCOVID-19禍では、世界的にみれば、非常時と言うべき事態が起こった地域があり、日本でも起こりかけた。例えばICUのベッド数に限りがある、種々のレスピレーターの数にも限りがある、そこへ詰めかけた患者群がある、その中で誰を優先的に、濃厚治療にかけるか。もちろん最優先なのは、患者の重症度だろうが、それも、重症患者が医療リソースの限界を超えてしまった場合、どう優劣をつけるのか。海外では、より若い世代が高齢者に優先して、治療を施された、という事例が幾つも報告されている。加えて、高齢者が自発的に、若者に医療機会を譲ったという報告もある。洞爺丸沈没の際、海中に投げ出された宣教師が、自分の身に着けている救命具を、波間に浮き沈みしている青年に譲って、波間に消えた、という話を重ね合わせ、超高齢者に属する身として、覚悟を決めなければ、という思いもある。しかし、医療側として、このような個別の人間の性(さが)に決定を委ねているわけには行かない。少なくとも制度的な対応が求められるはずである。そこに、人間の命の平等性を至高の価値と仰ぐ、現代社会の直面する最大のディレンマがある。

そして、すべての真正のディレンマがそうであるように、この場面での決定的に「ベスト」な解決策は見当たらないのである。

機能的寛容

精神科医森山成彬氏(ペンネーム「帚木蓬生」)は、現代社会が忘れがちな能力として、「ネガティヴ・ケイパビリティ」を挙げておられる。最善の解決策を手早く見つけて果断に実行する、それをポジティヴ・ケイパビリティとすれば、その裏の能力ということになる。私は、それを「ベスト」な解を諦め、「ベター」な解を探し当てようとする方法と、曲解する。「よりベターな」(この表現自体、奇妙ではあるが)解がある可能性を、常に前提としながら、判断し、行動する。この方法を理念化すれば「機能的寛容」にも通じる。医療の世界から、機能的寛容が失われ、常に正解が語られることほど、危険なことはないのではないか。