島田 悠一 | コロンビア大学医学部 循環器内科 助教授コロンビア大学病院 肥大型心筋症センター 研究主任 |
COI: | なし |
筆者はニューヨーク市内の大学病院の循環器内科医(心臓や血管の病気を専門とする内科医)であり、COVID-19の爆発的感染拡大のピークであった2020年3月から4月にかけては、循環器内科コンサルトチームの指導医として勤務していた。
循環器内科コンサルトチームというのは、入院中の患者に心臓や血管の異常が生じたときに救急や集中治療室などの主治医チームから相談を受ける専門医チームである。当院からの報告にあるように[1]、COVID-19感染症は様々な心臓・血管の異常を引き起こすため、結果として筆者は多くのCOVID-19患者の治療に携わることとなった。
この寄稿では、筆者がニューヨークの他院の医療従事者との議論の中で得た情報をまとめることとする(必ずしも当院の情報や施設としての意見を反映したものではない)。
なお、文中に「ニューヨーク州」と「ニューヨーク市」が両方出てくるので、それぞれの規模感をまず解説したい。
ニューヨーク州は面積でいうと北海道と九州を合わせたくらいの広さがあり、第一の都市ニューヨーク市から第二の都市バッファローまで車で行くと7時間程度を要する。人口は2000万人ほどである。
ニューヨーク市の面積は東京23区に川崎市を足したくらい、市内の人口は800万人である(比較のため、東京都の人口は1400万人)[2]。日本の読者がニューヨークと聞いてまず思い浮かべるのはこのニューヨーク市、特にその5つの区のうちの一つであるマンハッタン区(世田谷区くらいの広さ、人口163万人)であろう。
まず、ニューヨーク州における一日あたりの累積感染者数【図表1】と累積死亡者数の推移【図表2】を示す。これは、以降の項目に記したそれぞれの日付が感染拡大のどの時点に該当するのかを明らかにし、その時点での累積感染者数と累積死亡者数に照らし合わせることができるようにするためである。これらの図を見ると、6月下旬現在のニューヨーク州での累積感染者数は約40万名,累積死者数は約2万5000名であった[3,4]。
同時期のニューヨーク市での累積感染者数は約21万名,累積死者数は約1万5000名であった。
全米でみると米国内の累積感染者数は日本時間6月25日夕の時点で238万1361人、累積死者数は12万1979人となっている(米ジョンズ・ホプキンス大学の集計による)。
これらは日本とはまさに桁違いの数字であり、状況が全く違うので(ニューヨークは現在回復期にある)、この記事の内容を日本の現状に直接当てはめることはできないことに留意されたい。
図表1 |
ニューヨーク州におけるCOVID-19累積感染者数 |
https://www.statista.com/statistics/1109721/new-york-state-covid-cumulative-cases-us/ より改変 |
図表2 |
ニューヨーク州におけるCOVID-19による累積死亡者数 |
https://www.statista.com/statistics/1109713/new-york-state-covid-cumulative-deaths-us/ より改変 |
まず、なぜニューヨーク市で最も感染が拡大したかについて考察したい。まず、ニューヨーク市というのは他の米国の大都市と比べて特殊な都市であることに留意する必要がある。例えば、以下の点が挙げられる。
これらの特徴を持った都市で1000万人近い人達が生活している、というのがニューヨークのそもそもの姿である。これを呼吸器感染症の拡大という視点から考えると、ニューヨークでなぜ感染が急速に拡大したかが分かる。つまり、日本で言う「3つの密」に該当する状況というのがもともと非常に多くある大都市であった、ということである。
図表3 |
ニューヨーク市民の通勤、通学手段 |
地下鉄、バスなどの公共交通機関を利用している人が半数以上いることが分かる。 |
https://standardization.at.webry.info/200909/article_5.html より引用 |
図表4 |
米国の大都市において通勤に公共交通機関を利用する人の割合と平均通勤時間 |
右上の大きな円がニューヨーク市。米国の他の大都市と比べて公共交通機関を利用して通勤する人の割合(横軸)が極端に高く、平均通勤時間(縦軸)も長いことが分かる。 |
U.S. Census Bureau, American Community Survey 2006, Table S0802 より改変 |
米国と日本の大きな違いの一つとして、マスクに対する意識の違いが挙げられる。日本では臨床の現場でマスクをつけることに抵抗が少なく、日常的にマスクをつけている光景が見られる。これに対して米国では、(筆者が経験したカルチャーショックの一つであるが)普段は医療の現場であってもマスクはあまりつけない。
つけるのは手術、手技、検査の時くらいである。日本のようにマスクをつけて病棟に行くと、「自分は体調が悪い」ことを周囲に知らしめているように受け取られ、実際にかなりの確率で体調を心配される。一般社会においても、日本では花粉症などの理由で普段からマスクを着用している方を多く見かけるが、米国ではほぼ見かけない。マスクをつけているということは体調が悪く、咳やくしゃみをするかもしれない状態であると、受け取られるのが米国の文化であると感じる。
何がこのような日米のマスク文化の違いを生むのかについては諸説あるが、個人的な憶測としては日本人の清潔意識の高さ、米国人の意思疎通における顔の表情の重要性、などが影響しているのではないかと感じる。実際、米国人を見ていると、話す時だけマスクを外すという人を多く見かける。
CNNの記事によれば、その背景には建国以来の個人の自由の尊重と政府権力のせめぎあいがあるという[12]。理由はどうあれ、このマスク文化と着用率の違いが、日米の感染拡大の差に寄与したのではないかという仮説には一理あるのではないかと感じてしまうくらい、米国人はそもそもマスクをつけるのが嫌いである。
米国内でCOVID-19の感染が最初に確認されたのは西海岸北部のワシントン州で、2月のことだった。さらにカリフォルニア州(西海岸南部)での感染がちらほらと報告され始めた。この時点ではニューヨーク州(東海岸)での感染者は確認されておらず、また中国からの渡航が禁止されたこともあってまだ現場に切迫感はあまりなかった。しかし、上記のニューヨークの特殊性を鑑みて、医療従事者の間では、「一度感染が拡大し始めたら止まらなくなる」という危機感があったように思う。
2月下旬にはいわゆる買い占めが顕在化し、マスクやトイレットペーパー、アルコール消毒剤、食料品などが品薄、品切れの状態になった。
3月1日に、ついにニューヨーク州での最初の感染者が確認された。この第一例は米国外からの帰国者で空港での検疫で検知され、速やかに隔離されたが、問題は第二例であった。第二例は感染経路不明で他院の救急救命室にやってきたが、医療従事者を含む多くの濃厚接触者が生じる事態となった[13]。この後にも、初診時にCOVID-19感染症を疑わずにマスクの着用指示が遅れ、濃厚接触者が多数生じるという事態が全米で多発した。
ここで我々が得た教訓は、「COVID-19はCOVID-19の顔をしてやってくるとは限らない」、つまり全く無関係な理由(自動車事故など)や初期には関連が知られていなかった症状(下痢など)で救急を受診した患者の中にもCOVID-19患者が紛れ込んでいる、ということであった。
3月の初旬には、この例の他にも感染経路不明の発症者が数件報告されるようになり、この時点で医療従事者はニューヨークでの感染爆発はもはや時間の問題であるとの認識を持っていたように思う。実際にニューヨーク州での感染者数は指数関数的に増加し【図表1】、ここからの数週間で市民生活は激変した。
3月12日にはニューヨーク市で非常事態宣言(自粛要請)が発出され、3月16日からはレストラン、バー、カフェなどでの店内飲食が禁止となり、劇場、美術館、博物館、ナイトクラブ、映画館、コンサート会場、スポーツジムなどもこの時点で閉鎖された。3月20日には(警察、医療、食料品関係などの必須サービスを除く)全業種で労働者の25%以上を出勤させてはならないというニューヨーク州の行政命令が発令され、3月22日にニューヨーク州から(1)原則として在宅勤務の義務付けと(2)できる限りの自宅待機を要請する行政命令が出されるに至る。
ちなみに、ニューヨーク州における行政命令の具体的な内容は以下のようなものである。
前述のように、マスクの着用に対して大きな抵抗感を持っていた(ように見える)米国人であるが、3月のこの感染拡大に際してはさすがに意識が変わってきたように感じた。普段はマスクをしている人を街中で見かけることはほぼなかったが、この時点ではだいたい3割から4割くらいの人がマスクをつけて外出していたという印象であった。3月下旬でのニューヨーク州の感染者数は累積で1000人を超えていた【図表1】が、それでも半分以上の人はマスクをつけていなかったということになる。この点だけを見てもニューヨークの人達の中でいかにマスクをつけることに抵抗があったかがお分かりいただけるだろう。
上述のマスク着用率の低さは、数字でも裏付けられている。英調査会社ユーガブの調査によると、3月下旬から4月下旬のピーク時においても、ニューヨーク州でマスクを着用していると答えた人の比率は半分強の53%であった。これでも全米の州の中では3番目に高い数字であり、南部のサウスダコタ州(32%)、ミネソタ州(33%)、アラバマ州(38%)、アーカンソー州(39%)などでは4割を切っていた[14]。最近になってやっと着用率は上がり、米疾病対策センター(CDC)は6月12日の報告書で、しばしばもしくは常にマスクを着用する米国民は、全国規模で約74%と公表している[15]。しかしながら、筆者の6月下旬時点でのニューヨーク市内での観察によると、3割程度はいわゆる「あごマスク」(口と鼻を覆っていない)の状態であるので、効果がある状態でマスクをつけて外出している人は、全体の半分程度であるように見受けられる。
マスクに関してもう一点言えることは、CDCが初期の段階ではマスクの着用を強く推奨しておらず、この点も着用率の伸び悩みを招いた可能性がある、ということである。マスクの着用が死亡率の低下につながるかについては諸説あるが、米ワシントン大学保健指標評価研究所が6月24日に発表したデータによると、米国民のほぼ全員がマスクを着用しなければ米国内の死者数は今年10月1日までに17万9106人、もし95%が公共の場所でマスクを利用すればこれが14万6000人に減るだろうと予測されている[16]。
医療従事者として、また一般市民としてこの時期に肌で感じた変化は、救急車の出動件数の増加である。普段はニューヨーク市内で救急車のサイレンの音が聞こえることはたまにしかなかったが、3月の中旬くらいから急に増え始め、3月下旬にはひっきりなしに救急車が往来するという状況になった。
実際、ピークの3月30日にはニューヨーク市で、一日6527件の緊急電話通報があった(ニューヨーク市長の会見に基づく)。ブルームバーグ紙は、この時期の一日当たりの救急車の出動件数が2001年9月11日に起こった米国同時多発テロの日の出動件数とほぼ同じ水準であったと報じた[17]。これほど出動件数が多い状態が一か月も続いたという点からも、今回のCOVID-19爆発的感染拡大の異常さがお分かりいただけるだろう。
感染の拡大に伴い、医療提供体制にも急激に大きな変化が生じた。COVID-19の診療にあたっては、ヒト(医療従事者)、モノ(防護具や人工呼吸器)、ハコ(集中治療室)の三つの医療資源の一つでも欠けると十分な治療を行うことができない。ここでは、ニューヨーク市の他の病院で働いている医師達から入手した情報をまとめることによって、どのような変化が起こったのかを具体的に述べることとする(必ずしも当院の状況を記したものではない)。
COVID-19感染者の爆発的な増加を受け、その診療にあたる医療従事者の確保は喫緊の課題となった。ここでは、ニューヨークの病院がどのような方策を講じて医療従事者を確保したのかを、「出張の自粛」、「外来の休止」、「手術の中止」の三つの要素に分けて解説する。
感染拡大防止と医療従事者の確保のための一つ目の方策として、ニューヨーク州での感染が初めて確認された3月初旬、多くの病院で医療従事者に対して出張の自粛要請が行われた。具体的には、米国外に出ることの禁止(私用、公用ともに)と公用(学会、会議など)での米国内出張の禁止である。
これには医療従事者の感染予防という側面もあるが、それ以上に感染の拡大を見越して、患者数が急増した場合に医療従事者の数を確保するための方策だったのであろう。米国外に出ると帰米時に足止めされる可能性が高いこと、都市間の移動が制限されるような事態になりうること、などを予測した上での医療従事者を確保するための処置であったと思われる。
ニューヨーク州での患者数がまだ一桁【図表1】の段階でこの出張自粛要請を出したという点は、病院側の危機感の高さを窺わせるものであった。
感染拡大防止と医療従事者の確保のため二つ目の方策として、ほぼ全ての病院で外来の休止と遠隔医療への移行が行われた。外来を休止することの主な目的はもちろん濃厚接触の防止であるが、もう一つの意義として外来を主に行っていた医療従事者の人的資源をCOVID-19患者の診療に充てることができたという点が挙げられる。遠隔医療への移行に関しては保険会社とのやり取りやインターネット環境の整備、医療従事者のオンライン・トレーニングなど多くの段階があるが、概して円滑に行われた印象であった。これを機に米国では遠隔医療が急速に普及していくものと思われる。
感染拡大防止と医療従事者の確保のための3つ目の方策として、緊急以外の手術の休止(以下、「手術」という言葉に手技や検査も含むものとする)が行われた。予定されていた手術は全てキャンセルとなり、緊急手術以外は手術の予約ができなくなった。これによって、普段は手術を行っていた医療従事者が、COVID-19患者の診療を担当することができるようになったわけである。この方策には、感染拡大防止と医療従事者(「ヒト」)の確保の他に、「モノ」(人工呼吸器)と「ハコ」(集中治療室)の確保という面にも大きく貢献することになる(後述)。
COVID-19患者の診療にあたって、N95マスクを含む防護具の確保は医療従事者の感染予防の観点から必須である。しかしながら、N95マスクは本来結核などの空気感染しうる感染症の疑いがある時にのみ使用される特殊かつ高価なマスクであり、長時間の使用や連日の使用を想定していない。N95マスクを使う時には一人の患者に一つのマスクを使い、使い終わったら普段であれば基本的には使い捨てである。このような使い捨てには、マスクの表面に病原菌が付着し次の患者に感染するという事態を避ける、という意義もある。
もし普段通りの使い捨てを続けていたらN95マスクが足りなくなることは、感染拡大の初期の段階から予測されていた。このためニューヨーク市内のある病院では、N95マスクが不足しないようにするため、明らかな汚れがなく密閉度が保たれていれば連日使用してよい、という指示が出た。患者間の感染予防にはどう対処したかと言うと、N95マスクの上にサージカルマスク(感染防御力は劣るがN95マスクより安価)を重ね付けし、このサージカルマスクだけを使い捨てにすることによって患者間の感染を防止する、という方法を取った。
N95マスクの他にもガウンやフェイスシールド、手袋など医療従事者の感染予防のために必要な防護具は数多くある。これらの需給状況は病院によって差があったようである。急速に需要が高まる状況の中で、多くの個人、企業、団体、州、そして国などが防護具を寄付してくれた。これらのお陰で医療従事者の安全が確保され、診療に集中することができた。この場を借りて心より感謝を申し上げたい。
COVID-19患者の診療のために必須のもう一つの物的資源は、人工呼吸器である。ここで、普段の人工呼吸器の稼働数に対してCOVID-19の爆発的感染拡大のピーク時には、どれくらい多くの人工呼吸器が必要と予測されていたかをご紹介したい。3月中旬のニューヨーク州知事の会見によると、ニューヨーク州における人工呼吸器の備蓄(使われていないもの)は約2000台であり、これに対して必要となると予測された人工呼吸器の台数は1万8000台であった。
4月2日の州知事の会見ではこの予測値は3万台となり、「あと6日間で人工呼吸器が底をつく」との見解が示された。また、この時点でのニューヨーク市の予測値は「5月1日までに、集中治療室2万床、一般病床6万5000床、1万5000台の人工呼吸器が必要となる(ニューヨーク市長の会見による)」というものであった。幸いにも人工呼吸器が不足するという事態は免れた(実際、4月10日の時点で集中治療室に入院していた患者数は5000人ほどであった[18])が、ニューヨーク州で初めて感染者が確認されてからたったの一か月で事態がここまで進展した、というのは特筆に値する。
急速に高まった人工呼吸器の需要に対して、病院側も様々なやり方で対処していった。最も効果的であったと感じるのが前述の緊急以外の手術の休止である。多くの手術は全身麻酔を必要とし、全身麻酔のためには人工呼吸器を使わなければならないのだが、緊急以外の手術を休止することによって、普段であったら手術に使われていたであろう人工呼吸器を、COVID-19患者の治療のために割り当てることができるようになったのである。
COVID-19の診療に必須の3つの要素の三つ目は、集中治療室である。ニューヨーク市内の大きな大学病院を例に取ると、普段であればCOVID-19患者のような呼吸器感染症患者を治療する内科集中治療室が約25床ある。その他に循環器内科集中治療室(約25床)、胸部外科集中治療室(約25床)、外科集中治療室、神経内科・脳神経外科集中治療室、などといった様々な種類の集中治療室があり、全てを合わせると100床強くらいというのが、様々な種類の集中治療室の全てを合わせた病床数である。これに対して、ピーク時に集中治療室が必要なCOVID-19患者の数は約200人であった。つまり、普段の内科集中治療室の病床数の約8倍の患者数を集中治療室に収容する必要があった、ということになる。
それでは、ニューヨークの病院はどのようにして集中治療室の病床数を増やし、このような劇的な需要の増加に対応したのであろうか。まず行われたのが、内科以外の集中治療室へのCOVID-19患者の収容である。しかしながらすぐにこれでも集中治療室の病床数が足りなくなった。
次に行われたのが、手術室の集中治療室への改装である。もともと手術室では全身麻酔を行い、人工呼吸器を使った全身管理が行われるので、集中治療室として使うには適した環境であったと言える。
さらにその次に行われたのが、カテーテル検査室の集中治療室への改変である。カテーテル検査というのは循環器内科医が行う検査の一つで、カテーテルという細い管を心臓まで進めて色々な検査をするというものだが、こういった検査も緊急の場合(急性心筋梗塞など)を除いて休止となっていた。このために使用されなくなっていたカテーテル検査室(大きな大学病院だと15室ほど)を、集中治療室に改装してCOVID-19の診療に充てたのである。
最後に、小児科の病床の活用について触れたい。COVID-19の一つの特徴として、小児では重症化しにくい(あくまで成人と比較しての話であり、重症化しないわけではない)という点がある。このため、小児科の集中治療室は比較的病床数に余裕があり、小児科の集中治療室の病床を活用することによって、さらに集中治療室の数を確保することができた病院もあったようである。
「医療提供体制の変化」の項では、COVID-19の診療に必要な「ヒト」「モノ」「ハコ」の需要が急速に拡大するという前代未聞の状況に際して、ニューヨークの病院がどのように対処していったかを解説した。
ピークが過ぎた今、当時を振り返って感じることは、病院の上層部のリーダーシップの強さ、意思決定の正確さ、そして決定された事項の周知徹底の速さである。上記のように今までの常識にとらわれない柔軟な思考と科学的根拠に基づいた判断が求められ、さらにその拠りどころとなる科学的根拠の量、質、内容が時々刻々変化していく中で、現場の医療従事者がその能力を発揮できるような環境を整えることは、決して易しいことではない。このような中で毎日状況の変化を伝え医療従事者を元気付けるメールを発信し、不安を払拭してくれたリーダー達の存在も、この非常事態を乗り切る上で大きく役に立った要素であった。
前項(「医療提供体制の変化」)では、医療機関がどのようにCOVID-19の爆発的感染拡大に対応してきたかを述べた。この項では、州や国がヒト(医療従事者)、モノ(防護具や人工呼吸器)、ハコ(集中治療室)の三つの医療資源を確保するために、どのような施策を実行してきたかに焦点を当てる。
「ヒト」(医療従事者)の確保のためにニューヨーク州が打ち出した施策は大きく二つある。一つは最近引退した医療従事者の再雇用であり、もう一つは米国の医師免許を持っていない医師の活用である。
医療従事者の確保のためにニューヨーク州のクオモ州知事が打ち出した施策の一つ目は、最近引退した医療従事者の再雇用である。
そもそも米国においては、日本のような定年という制度がない職場が多く、引退の時期は自分がどれくらい引退後の時間を取りたいか、引退後の生活資金の蓄えがあるか、今の職場がどれくらい快適か、といった要素を基に各個人が決める場合が多い。さらに、引退する理由も様々で、日本でいう定年(くらい)の年齢に達したからという理由の他に、家庭や個人的な理由でもっと若い年齢で引退する医療従事者も数多くいる。つまり、働ける能力と時間は持っているが働いていない状態の医療従事者が多くいるわけである。こういった潜在的な医療人的資源を掘り起こすことを目的としたのがこの施策である。
もちろん、一定期間臨床から離れている人たちにもう一度働いてもらうという訳なので、臨床の現場に復帰する前に、一定期間は再就職のための訓練を受けてもらうことが前提となっていたようである。
医療従事者の確保のためにニューヨーク州知事が出した施策の二つ目は、米国の医師免許を持っていないが、米国外で一年以上の臨床経験のある医師がニューヨーク州の臨床の現場で働けるよう特別な許可を与えたことである。米国外で医師免許を取得した後に研究などの目的で米国に滞在している医師は多くいる。こういった医師達は米国内では医師免許がないため、普段は臨床の場で診療にあたることを許されていないが、それを特別に許可することによって医療従事者を確保しよう、ということである。
医療従事者の確保のためにニューヨーク州知事が出した三つ目の施策は、ニューヨーク州の中での医療従事者の再配分である。前述のようにニューヨーク州は広大であるため、爆発的感染拡大が起こったニューヨーク市近郊(【図表5】の右下の部分)と、その他の地域には大きな医療資源の需要の差が生じた。そこで州知事はまずニューヨーク州に登録している医療従事者一人一人にEメールを出し、いくつかの項目についてアンケートを取った。
以下は、実際に筆者に届いたEメールのアンケート項目の翻訳である。
これに基づいてニューヨーク州の中での医療従事者の再配分が行われた。具体的には、感染者が比較的少ない地域の医療従事者を感染拡大の中心であった地域(例:ニューヨーク市とその近郊)に派遣し、医療従事者の不足分を補った、ということである。
これまでに述べてきた3つの施策の他にも、ニューヨーク州では様々な施策が次々と打ち出された。
例えば、医学生の動員、研修医の就業時間制限の撤廃(普段、研修医には週60~80時間という勤務時間の上限がある)、カルテ記載の義務の緩和、などである。これらの施策を見て言えることは、米国の医療にはある程度の「余力」があり、その余力を総動員するとかなり大きな人的資源になるということであった。また、このような大きな規模での人材の再雇用・再配分を行う上での州知事のリーダーシップ(後述)は特筆すべきものであった。
図表5 |
ニューヨーク州における各郡での感染者数 |
ニューヨーク市はこの図の右下に位置する。 |
https://en.wikipedia.org/wiki/COVID-19_pandemic_in_New_York_(state) より改変 |
人工呼吸器の確保に関しては、国家レベルでの対応がなされた。そのうち最も特徴的なものは国防生産法の発動であろう。国防生産法というのは、1950年の朝鮮戦争の際に制定された法律であり、戦争や石油危機、大規模災害などに対して過去に50回ほど発動されたことがある。国家が民間の会社などに特定の品物を作ることを強制できる法律である。
今回のCOVID-19感染拡大に対してもこの法律が適用され、国家が企業に対して人工呼吸器を生産するよう強制することが可能になった。実際、ジェネラル・モーターズ社などの自動車メーカーはこの法律に基づいて(もしくはテスラ・モーターズ社のように自発的に)、人工呼吸器の生産を開始した。企業側も迅速に対応し、例えばフォード社は100日間で人工呼吸器を5万台生産する計画を発表した【図表6】。
この例からも分かるように、今回のCOVID-19の爆発的感染拡大に際しては、予想された物資の不足を避けるために国家レベルでの資源の再分配が行われ、強制力のある法律に基づいて企業に人工呼吸器を生産させるという施策がなされた。
図表6 |
フォード社による人工呼吸器の生産計画 |
フォード社のホームページより引用 |
人工呼吸器を確保するために、さらに2つの施策がニューヨーク州知事により承認された。
検討された手段の1つ目は、一台の人工呼吸器を二名の患者につなぐ、という方法である。単純に計算すると、これにより必要な人工呼吸器の数が二分の一になる(つまり、同じ台数の人工呼吸器で治療できる患者数が倍になる)。
しかしながら、この方法では主に二つの弊害が起こることが予測された。まず予測された弊害の一つ目は、感染症の問題である。そもそも人工呼吸器というのは肺の入り口に栓をしてそこから空気が漏れないようにした上で機械の力で強制的に空気を送り込み、呼吸を補助するというものである。一台の人工呼吸器を二人の患者につなぐと、この患者の肺と肺の間が密閉空間で繋がれることになってしまい、そこで菌が繁殖した場合に患者から患者への感染が起こり得る状態となってしまう。
二つ目の弊害は、個々の容態に応じた人工呼吸器の設定ができなくなってしまうということである。そもそも人工呼吸器というのは一人一人の患者の酸素化や二酸化炭素の放出の度合い、意識状態、その他様々な条件に合わせて多くの変数を設定し、さらにそれらを状態の変化に応じて刻一刻と変えていって初めて適切な呼吸管理ができるように設計されている。一台の人工呼吸器を二人の患者につないだ場合には、こういった細かい設定や容態の変化に応じた調整が出来なくなるという懸念があった。
よってこれはまさに最後の手段であり、幸いにも(少なくとも筆者の知る限りでは)1台の人工呼吸器を2人の患者につながなければいけないという事態にまで至った病院はなかった。
動物用の人工呼吸器を人間に利用する、というと驚かれるかもしれないが、これも実際にニューヨーク州によって許可された施策の一つである。呼吸器の仕組みという視点から見ると大型の哺乳類と人間の間には多くの共通点があり、人工呼吸器のつくりを考えると基本的な仕組みにはほとんど違いはない。
ニューヨーク州政府は専門家に意見聴取を行い、緊急の場合には動物用に作られた人工呼吸器を人間に使ってよいとする州知事令が発令された。幸いなことに(少なくとも筆者の知る限りでは)動物用の人工呼吸器を人間に使った例はなかった。
COVID-19感染症患者の診療のために必要な三つの要素の一つが「ハコ」(病棟)である。 ニューヨークにおけるCOVID-19の爆発的感染拡大のピークであった4月中旬には2万人近い入院患者がいたことを考えると、既存の病院だけではとてもこの数の入院患者を受け入れることはできない。 病棟の確保に関しても、ニューヨーク州と国はいくつかの施策を実行した。ここでは、そのうち病院船の派遣と国際会議場や大学施設の病院への改装の2点について触れる。
感染の拡大が続く3月中旬、海軍の病院船がサンディエゴ(西海岸南部)からニューヨーク港に向けて出発した。この病院船も戦時などの非常事態を想定して作られたもので、約1000床の病床を持っている。この病院船は3月27日にニューヨークに到着した。当初は既存の病院の負担を減らすためにCOVID-19以外の患者の受け入れのみを行っていたが、ニューヨーク州知事の要請を受けて方針が変わり、COVID-19患者を受け入れるようになった。1000床というと大きな病院一つ分くらいの規模であるので、この例からも米国の医療資源の「余力」というものが感じられた。
ニューヨーク市の施策の中で病床数の確保に大きく役立ったのが、複数の大きな国際会議場や大学の建物を病棟に作り変えたという点である。
ニューヨーク市とその近郊には、大きな国際会議場や大学の建物が多くある。その具体的な規模を例示すると、Javits国際会議場は6万平方メートル以上の展示スペースを持つ。このような大きな国際会議場や大学の建物を5つ改装し、病院として利用するという施策が実行され、かなりの数の病床数の補充を可能とした。
言い換えてみれば、大規模な病院が5つ建ったのと同じだけの入院患者収容能力があるわけで、この施策によって、既存の病院における病床数にかなりの余裕が出来たことは間違いないであろう。
この項では主にニューヨーク州がどのような施策を打ち出し、国に働きかけ、実行してきたかについて解説した(国の施策は、相川眞範先生の記事に詳しく述べられているのでご参考にされたい)。
この全ての過程で特筆すべきは、ニューヨーク州のクオモ州知事の卓越したリーダーシップであった。彼は3月から6月19日までに渡って毎日記者会見を開き、登録した人にはEメールで毎日情報をアップデートし、具体的なデータとその出どころを示しながら現在の状況を説明し、州民に今なすべき行動と避けるべき行動を、明確にそして非常に分かりやすく示してきた。さらに、必要な施策があったら国や市に要請してそれらを実行してきた。一人の州民として、また医療従事者として、州知事の毎日の記者会見とEメールは、州政府が何を考えどんなふうに動いているかを知るために非常に効率よく機能したと感じる。
このように科学的根拠に基づいて、強いリーダーシップを発揮できる人がしかるべき立場にいたということは、ニューヨーク州の人たちや医療従事者にとって不幸中の幸いであったと言えるであろう。
この項では、COVID-19感染症の拡大に伴って、医療従事者の病院外での日常生活がどのように変化したかを述べる。
COVID-19の爆発的感染拡大の期間中、医療従事者は様々な精神的ストレスにさらされることとなった。この点はあまり取り上げられることがないように思うので、ここでまとめてご紹介したい。
CDCは全米の医療従事者における感染者数と死亡者数を公表している。6月22日時点での数字を見ると、医療従事者の感染者数は8万3673人、死者数は464人であった[19]
この集計では、全体の22%においてのみ医療従事者か否かを同定しており、さらにその中で生存状況を把握しているのは64%であるので、実際の数字はおそらくこれを大幅に上回るであろう。他院で働く筆者の知り合いの医療従事者の中にも、感染した人は数多くいた(もちろん院外での感染の可能性は否定できないが)。
このように医療従事者は常に感染の危険性と隣り合わせで診療に従事している。感染者数がピークに至るまでの期間には、防護具が不足するのではないかという恐怖もあった。さらに言えば、同僚の医療従事者が重症患者となったり、目の前で亡くなったりすることもあり、その診療に当たる際の精神的負担は並大抵のものではない。まさに「明日は我が身」という状況の中で多大な精神的ストレスがかかっていた [20,21]。
COVID-19感染症は患者にとって非常に孤独な感染症といえる。なぜなら、感染の危険性があるため容態が悪化しても家族のお見舞いが許されず、不幸にして亡くなった場合には、家族の誰にも看取られることなく一人で亡くなっていくからである。これは医療従事者に二つの面で大きな精神的ストレスを与える。一つは、もし自分が感染したら、このように一人で死んでいかなければならなくなるかもしれないという恐怖、もう一つは目の前で、一人で亡くなっていく患者に対するやりきれない思いである。かつてないほどの頻度で、目の前の患者が亡くなっていくという状況の中で、医療従事者にかかっていた精神的ストレスは計り知れないものがある。
COVID-19患者の診療に当たった医療従事者が感じるもう一つのストレスは、普段であれば救えていたはずの命が物的資源の不足のために救えない場合がある、ということに起因する。前述のようにCOVID-19爆発的感染拡大の期間中は、医療資源の需要と供給のバランスが崩れ、病院によっては、どの患者に優先的に人工呼吸器を提供するかという判断を迫られることになったところもあったと聞く。実際にそのような状況になった場合に、どうやって優先順位をつけるかに関するガイドラインも存在する[22]。こういった状況で、普段だったら提供できていたはずの最善の医療を提供できていないのではないか、自分が命の選別をしたのではないか、という自責の念に苦しんだ医療従事者も多くいたことであろう。
COVID-19爆発的感染拡大の時期には、大量の新たな科学的知見が毎日のように発表され、これは現在も続いている。例えば、英文の学術雑誌に発表されたCOVID-19関連の論文数は3月中に指数関数的に増加し、世界保健機関のデータベースによると4月下旬の時点で8000本、6月22日の時点で3万5000本を超えた[23,24]【図表7】。事態を複雑にしたのは、多くの論文がいわゆるプレプリント、つまり専門家による審査を経ていない段階で、学術雑誌以外の媒体に公表されていることである。専門家による審査を経て学術雑誌に掲載される論文においては、ある程度の信頼性が担保されている場合が多いが、プレプリントの場合にはそれぞれの論文の信頼性や研究者による解釈の正確性を自分で判断し、信頼できる情報を取捨選択しなければいけない。この時期の医療従事者は普段より診療に従事する時間が増えて、文献に目を通す時間を確保することが難しくなったにも関わらず、治療を進めるためには最新の知見は知っておかなければいけない、という難しい状態に置かれることとなった。
図表7 |
2020年におけるCOVID-19関連論文数の変化 |
The Economist紙 https://www.economist.com/science-and-technology/2020/05/07/scientific-research-on-the-coronavirus-is-being-released-in-a-torrent より改変 |
5月22日、ニューヨークの感染者数がピークを越えた頃、衝撃的なニュースが入った。ニューヨーク市内にある病院の救命救急科のトップの医師が自殺したというのだ[25]。この医師にはもともと精神科的疾患の既往はなく、友人も趣味も支えてくれる家族もあったそうである。彼女が勤務していた病院では200床の病床のうち170床がCOVID-19患者で占められ、ピーク前の時点で既に59人の死亡者が出ていたということである[25]。
他にも、ニューヨークの23歳の救急隊員など、COVID-19患者の診療にあたっていた医療従事者の自殺の例は枚挙にいとまがない[26]。
これらのニュースは、COVID-19患者の診療において医療従事者にかかっている精神的ストレスを改めて浮き彫りにした。
COVID-19患者の診療に当たる医療従事者を悩ませているもう一つの問題は、家族を感染させてしまう危険性である。いかに防護具をつけて細心の注意を払っていても、やはり家庭に感染を持ち込む可能性はなくならない。特に重症化する確率が高い高齢の家族と同居している場合には、なおさらである。
実際、同僚の中には家族を感染率の低い郊外に避難させたり、逆に自分だけが一人で宿を取って離れて暮らしたりする、という対策を取る者もあった。しかしながら必然的に家族と離れ離れになるため、これが精神的負担を増す要因の一つになった医療従事者も多くみられた。
医療従事者の精神的ストレスの原因としては、これまでに述べてきたものの他に以下のものが挙げられる[27]。
COVID-19患者の診療にあたる医療従事者の精神的ストレスに関しては、既にいくつかの論文が発表されている。中国[28]やイタリア[29]からの報告によると、50%が抑うつ、45%が不安、そして34%が不眠を感じている、ということであった[30]。また、危険因子としては、女性または看護師という要素が挙げられている[19]。
医療従事者の他にも、米国民の4人中3人の睡眠に何らかの影響が出ているとのデータがある(州知事の会見による)。Time誌の調査によれば、米国民で精神的苦痛を感じている人は3倍に増えており、特に18歳から44歳で急増している。この事態を受けてCDCはCOVID-19患者の診療に当たる医療従事者の精神的サポートのためのホームページを設置している(https://www.cdc.gov/coronavirus/2019-ncov/hcp/mental-health-healthcare.html)
これらの事例を踏まえて、もし将来同様の状況が発生した場合には(COVID-19以外にも災害などで同様の事態は発生し得る)、病院の管理者は、早期に医療従事者のための精神的なサポートを考慮する必要があると考えられる。
前述の精神的な負荷に加えて医療従事者を悩ませたのが、食料の確保が難しくなったという問題である。各国で起こったのと同様にニューヨークでも食料品の買い占めが起こり、ほぼ全てのスーパーマーケットで品薄や品切れの状態となった。
これに関しては医療従事者ももちろん例外ではなく、むしろ弱い立場に立たされることとなった。というのは、普段よりも勤務時間が増えることで、スーパーマーケットが開いている時間に職場を離れることが難しくなり、開店前に並んで待つことや、入荷時間に合わせて買い物に行くといった行動ができなくなってしまったためである。さらに、これも各国で起こったことであるが、オンラインでの食料品の買い物も数週間先(場合によっては数カ月先)まで予約が出来ない、という状況であった。
この状況を改善したのが、いくつかのレストランからの食料の寄付であった。最終的には病院が食料を調達し配布することで医療従事者の食料は確保され、これは6月27日現在も続けられている。
このように、勤務時間が長くなったり不規則になったりする分、日常生活において何らかの競争が生じた場合には、医療従事者は比較的弱い立場になり得ることに注意が必要である。もしこういった事態が生じた場合には、医療機関の管理的立場にある人たちが、医療従事者の基本的な生活を維持するための方策を、速やかに打ち出すことが必要になることと考えられる。
ここまでは主に病院や州の対応と医療従事者の生活の変化について述べてきたので、この項では市民生活の変化について記すこととする。
COVID-19の流行とそれに伴う行動制限によって需要が激減した産業は多く、旅行、宿泊、外食、娯楽、それに対人距離の近い業種(例:美容、理容)などが特に大きな影響を受けた。これに伴い、米国では未曾有の失業率の増加が起こった。失業率はCOVID-19感染拡大前の3.5%から8月8日には15%に跳ね上がり、5月7日までの6週間に全米で3300万人もの人が失業保険の給付を申請した[31]【図表8】。これは、リーマンショックやバブルの崩壊の時の失業者数と比べても過去に類を見ない、まさに前代未聞の数字である。
不況が長引けば自殺者が増える懸念が生じる。実際、リーマンショックの際に自殺者が増加したことが報告されている。今回のCOVID-19の爆発的感染拡大においても、自殺防止ホットラインへの電話が増えているとの情報もある[32]。人々の行動制限は経済の停滞と失業者の増加を招き、相応の経済的支援と抱き合わせで行わなければ人命に関わるため、補助金の給付や政府の景気刺激策など様々な支援策が打ち出されている(最終項を参照)。
失業率の増加と直接の因果関係があるかは分からないが、直感的には、ニューヨーク市の治安は悪化している。ニューヨーク市警察の発表によると、外出制限によって街に出ている人の数がそもそも少ない状況であるので、スリや置き引きなどを含めた全体の犯罪数は減少しているものの、銃犯罪や殺人事件などの件数は、昨年の同じ時期と比べて以下の割合で増加している[33]。
実際、いつもは観光客や市民で賑わっていたマンハッタンのダウンタウンも、現在では閑散としており、銃撃事件による死者も発生している。この治安の悪化も、COVID-19の爆発的感染拡大の間接的な影響とみることができるであろう。
図表8 |
米国における週ごとの失業保険の給付申請数(単位:百万件) |
過去の週平均が35万件、リーマンショックの際にも最大で週70万件程度であったので、今回の申請数の増加がいかに異常なものであるかが分かる。 |
https://www.bbc.com/news/business-52570600 より改変 |
COVID-19患者数が増加を続けていた3月、ニューヨーク州の全ての学校は休校となり、大学の寮で暮らしていた学生は退去を余儀なくされた。これにより子供が平日の日中も家庭にいるという状況ができ、授業をオンライン化する必要が生じたのは日本と同じである。しかしながら、そもそも米国において日本と異なる点は、貧富の格差が大きいということである。このため、多くの家庭では子供の昼食やおやつを学校に依存している。学校が休校になるということは、こういった家庭では子供の食料が不足するということを意味する。特に、COVID-19の影響で親が失業した家庭では家族全体が食料に困る、という事態も生じている。こういった事態を受けてニューヨーク市はまず子供への食料配布所を設置し、親も食糧難にあえいでいる家庭があると分かると、大人にも食料の配布を拡大した(最終項を参照)。
学校のオンライン化と在宅勤務の義務付けによって状況が悪化した社会問題の一つが、家庭内暴力である。COVID-19の爆発的感染拡大に伴う外出制限によって、加害者と被害者が一日中同じ家にいなければならなくなることになり、これによる家庭内暴力の件数が世界的に増加することが予測されている。
例えば、国際連合は2か月間の外出制限により、新規の家庭内暴力が全世界で1500万件増加するとの予測を発表している[34]。実際、米国のいくつかの都市(ニューヨークを含まない)のデータをまとめた報告では、外出制限の発令後に家庭内暴力の件数が増加していた[35]【図表9】。ニューヨーク州のデータを見るとこれらの都市よりも増加率は大きく、家庭内暴力の件数は3月に15%,4月に30%と大きく増加した(州知事の会見に基づく)。
米国内の多くの緊急通報システム(日本の110番や119番に当たるもの)は、テキストメッセージ機能に対応しておらず、電話のみに対応しているため、これが同一家屋内にいる家庭内暴力の被害者による通報を難しくしているとの意見もある。
図表9 |
米国の大都市における家庭内暴力の件数の推移 |
The Economist誌 https://www.economist.com/graphic-detail/2020/04/22/domestic-violence-has-increased-during-coronavirus-lockdowns より改変 |
この項では、COVID-19の爆発的感染拡大とそれに伴う行動制限によって、市民生活がどのように変化してきたかを解説してきた。他にも、失業者が増えたことによって無保険者が増え(米国には皆保険制度がないため、雇用主を通じて保険に入らないと、保険料が高額になる場合が多い)、医療費を心配して、重症化するまで救急を受診しない患者が発生する、という悪循環が生じた。これに対して、行政は無保険者でも、COVID-19に対する診療の経費を免除するという対策を打ち出してきた【図表10】。ここまで示してきたように、COVID-19の感染拡大によって、もともと困難な立場にある人々が、さらに苦しい状況に追い込まれるという事態が多く見受けられたことは、心に留めておくべきであろう。
図表10 |
失業した人や医療保険を失った人を対象とした、州のFacebook広告 |
安い(もしくは無料の)医療保険があるかもしれないので州に相談するよう促している。 |
ニューヨーク州では経済的活動の再開は、7つの基準(最終項を参照)に基づいて段階的に行われ、州のウェブサイトには、どの地域が現在どの段階にあるかと、各段階において可能となる活動が具体的に示されている[36]。
例えばニューヨーク市では6月22日より第2段階に入り、以下の事業が再開された。この結果、15万人から30万人が業務に復帰する見込みとなっている。
また、公園の閉鎖も解除され、徐々にではあるが市民生活が日常を取り戻しつつある。
とはいえ、先日の抗議活動と暴動の影響もあってか、ニューヨーク市の中心部であるマンハッタン区のダウンタウンでもまだまだ人通りは少なく、商店も多くは閉じたままで、徐々にそして慎重に活動を始めている、といった印象である。
【図表11】にニューヨーク州の新規感染者数を示したが、ニューヨーク州での新規感染者数は4月下旬にピークに達した後に、明らかに減少を続けている。
では、この記事が書かれた6月26日までで米国で一日当たりのCOVID-19新規感染者数が過去最大を記録したのは何月何日であろうか?ニューヨーク州のピークであった4月下旬であろうか?答えはまさに今日、6月26日(4万4726人)である[37]。
【図表12】に全米の新規感染者数を示したが、これからお分かりいただけるように、米国全体でみるとCOVID-19の新規感染者数は再び明らかな増加傾向にある。
この原因となっているのが、主に早期に経済活動を再開した米国南西部に位置する州(カリフォルニア、フロリダ、テキサス等)である。これらの州では、一日あたりの新規感染者数の過去最高記録を更新し続けている。一部のメディアは、若年者が対人距離を確保していないことが原因の一つだと指摘している[38]。さらに、米国の約半数の州では新規感染者数が増加している。米国においては、既に第二波が到来している(または、第一波が終わっていない)のである。
この事態を受けて、テキサス州では7月4日に予定されていた全面再開を延期、カリフォルニア州やフロリダ州でも同様のことが検討されている。ニューヨーク州は6月24日、感染が拡大している州からニューヨーク州に入ってくる者に、2週間の自宅待機を義務付けた。
これらの例から明らかなことは、人々の活動が活発になり感染対策を怠ればそれに伴って感染が拡大する、ということである。まさに、人々の油断に付け込んでくるウイルスであると言えるであろう。人々が感染対策を守れないとすると、経済的活動制限à感染者減少à経済的活動再開à感染者増加à再び経済的活動制限というサイクルを繰り返しながらワクチンの到来を待つ、というのがこれからの米国の姿になるかもしれない。
図表11 |
ニューヨーク州における一日あたりの新規感染者数の推移 |
4月14日がピークであったことが分かる。 |
図表12 |
米国における一日あたりの新規感染者数の推移 |
全米で見ると、一日あたりの新規感染者数はここ数日過去最高を更新し続けている。 |
COVID-19の爆発的感染拡大とそれに伴う行動制限は、以下のような様々な経路で慢性疾患の悪化につながると予測される。
また、緊急処置を要するような急性疾患(心筋梗塞など)に関しても、COVID-19の感染を恐れて医療機関の受診が遅れたり、そもそも受診しなかったりする例が増えていると考えられる。
この根拠となるのが、前年までの同時期と比べた心筋梗塞患者の受診者数である。【図表13】に示したように、COVID-19の感染拡大が始まってから、心筋梗塞による受診者数は激減した[39]。イタリアでも同様に心筋梗塞受診者数の減少が見られ、加えて受診時には既に重症化してしまっていることも報告された[40]。これは臨床の現場でも肌で感じていたことで、「心筋梗塞の患者さんはどこにいってしまったのだろう」と医療従事者同士で話していたくらいである。ボストンの元同僚も同様の印象を受けたと述べている[41]。
心筋梗塞の発症数そのものがCOVID-19の感染拡大によって減少したとは考えにくいので、これはやはり医療機関の受診を躊躇していると解釈するのが妥当であろう。他にも、糖尿病患者が感染を恐れて薬局に行かず血糖値のコントロールが悪化した、骨折して歩けなくなった患者が感染を恐れて救急を受診しなかった、などの例が報告されている[41]。
では、もし緊急処置を要するような急性疾患の患者が医療機関の受診を躊躇しているとしたら、このような受診行動の変化は、死亡率の上昇を招いているのであろうか。この問いに一定の答えを与えてくれるのが超過死亡数である。超過死亡とは、例年の同じ時期に比べて死亡者数がどのくらい増えたかを表す数値である。
【図表14】に示したように、ニューヨーク市の2020年5月2日までの超過死亡は2万4172人であり、COVID-19患者による死者(感染疑いを含む)数が1万8879人であることを考えると、超過死亡のうち約5分の1の5293人が、COVID-19感染の疑いがない死亡者ということになる[42]。もちろんCOVID-19感染者であったのに生前に感染が疑われなかった例もあるだろうが、超過死亡の中に医療機関の受診を忌避することによる慢性疾患の悪化や、急性疾患の治療の遅れによる死亡者数が含まれている可能性がある。慢性疾患の悪化はすぐには目に見える形で現れてはこないので、その影響はこれから明らかになってくるであろう。
図表13 |
2019年と2020年の心筋梗塞患者数の比較 |
カリフォルニア州での初めての死者が報告された日あたりを境に、急性心筋梗塞の受診者数が昨年に比べて減少しているのが分かる。青線はCOVID-19累積感染者数を表す。 |
引用文献39より改変 |
図表14 |
ニューヨーク州における超過死亡数とCOVID-19関連死亡者数 |
超過死亡の20%ほどは、COVID-19確定症例でも疑い症例でもないことが分かる。 |
引用文献42より改変 |
最後に、ニューヨークにおけるCOVID-19の爆発的感染拡大の時間的経過を時系列でまとめて示す。3月初旬に第一号の患者が確認されてから、たったの数週間で自宅待機要請にまで至る爆発的な感染拡大のスピードと、次々に打ち出される対策の具体的な内容がお分かりいただけると思う。なお、この項の内容は、主に在ニューヨーク日本国総領事館から発信された情報に基づいている[43]。