井出 博生 | 東京大学未来ビジョン研究センター |
COI: | なし |
外出を控えたり、「3密」を回避し、手洗い、マスクの着用、換気を行うことは、すっかり生活に根付いたと思われる。中国・武漢からも報告されたように、新型コロナウイルス感染症の重症化、死亡のリスクを高める要因の一つは年齢(高齢であること)である[1]。新型コロナウイルス感染症による死亡を抑え、また重症化した患者が激増することで生じる医療崩壊を抑止するには、引き続き高齢者、基礎疾患などのリスクを持つ人への感染予防が重要である。
高齢者の中でも、介護施設等に集団で居住している人のリスクはとりわけ高いと思われる。この半年間、国内外で数多の報道があるが、国外の事例でしばしば取り上げられたのがアメリカ・ニューヨーク州、医療崩壊と共に伝えられたイタリア北部のロンバルディア州のケースである。ニューヨーク州では8月6日まで18,938人が死亡したが、8月5日までに同州内のナーシングホーム内で死亡した人(確定例および推定例)に限っても死亡者数は6,424人に達する[2, 3]。つまり、全死亡者の3分の1が高齢者の居住系施設で発生したことになる。イタリア・ロンバルディア州で最も状況が悪かった4月下旬までの状況を示すと、ナーシングホームでの死亡者3,859人のうち確定例は133例、インフルエンザまたは新型コロナウイルス感染症様の症状を呈した者は1,310例であり、Istituto Superiore di Sanità(国立衛生研究所)はこの期間における同州内の高齢者の死亡のうち3分の1以上に相当すると結論付けている[4]。なお、フィナンシャルタイムズが公開したデータによれば、同州における3〜4月の週毎の超過死亡率の中央値は130%である[5]。この2つの地域での医療の状況、遺体が置かれた状況はしばしば伝えられたが、まさに衝撃的であった。
わが国でも当初高齢者を中心として感染が拡大し、重症者がICUなど高次の医療資源を占め、さらにその影響で医療提供体制の逼迫が懸念された。7月からの東京都を中心とした感染の再拡大を第二波とすれば、第二波における陽性者の中心は20代、30代といった若年層である。高齢者への拡大防止が、陽性者数に対して重症者の割合が低く抑えられている理由の一つと思われる。新型コロナウイルス感染者等情報把握・管理支援システム(HER-SYS)が稼働し始めたのは5月下旬であり、未だ陽性者の属性に関する分析は不十分で、介護施設における死亡者数について国から示された数字はない。共同通信は緊急事態宣言が発出された第一波の最中に、その時点での国内の死亡者557人のうち介護施設の入居者が占める割合は14%だったことを報じている[6]。また高齢者の居住系施設でクラスターは発生したものの、その件数は心配されたよりは少なかったのではないだろうか[7]。
筆者は医療提供体制がこれまで崩壊しなかった背景には、特に介護施設での感染が予防されたことの影響が大きいのではないかと考え、共同研究者と共に行政機関、介護施設などに対して5月以降ヒアリングを実施した。当初から各施設で面会および納入業者の立ち入りに対して厳しく制限したのではないかと考えられたが、具体的に語られた内容を整理すると概ね下表のようになる【図表】。
図表 |
わが国の介護施設で新型コロナウイルス感染症の感染が拡大していない理由(仮説) |
ヒアリングの記録を元にして、介護施設で感染が拡大していない理由について、レベル別に仮説をまとめた。 |
以降では政策的、制度的な面から介護施設で感染が拡大しなかった理由を述べたい。マスクの着用をはじめとした日本人の生活習慣も理由の一つであると思うが、我々の社会システム、社会制度に感染の拡大を防ぐ仕掛けが備わっていたということが重要であり、海外からも謎とされているわが国の低い死亡率などを説明にもなるだろう。
新型コロナウイルスへの一般の関心が高まったきっかけは、横浜港に停留したダイヤモンド・プリンセス号の一件である。ダイヤモンド・プリンセス号が横浜港に停泊したのは2月3日で、その頃介護施設では冬季のインフルエンザシーズンに備えて例年と同様にインフルエンザ予防対策を敷いていた。インフルエンザに警戒すること自体は、この時期の北半球であれば程度の差はあれ他国でも同じだと思われる。
注目すべき点は行政の対応である。1月31日に厚生労働省から「社会福祉施設等における新型コロナウイルスへの対応について」という事務連絡が発出されている[8]。これは介護施設を含む社会福祉施設等を対象としたものであり、この中では新型コロナウイルスに対して正しい認識を持つこと、感染対策マニュアル等を通じて基本的な感染症対策に努めることに触れた。2月13日に通知は更新され、中国・湖北省又は浙江省から帰国した職員について、発熱、呼吸器症状がある場合の対応が指示された[9]。2月24日に「社会福祉施設等(入所施設・居住系サービスに限る。)における感染拡大防止のための留意点について」という事務連絡が発出され、ここではさらに踏み込んだ対応が記述されている[10]。感染防止に関するポイントだけ述べると、1)検温等の職員の健康管理、2)やむを得ない場合を除く面会制限、3)委託業者等の物品の受け渡し等の制限、4)感染が疑われる利用者に対する個室管理等の対応である。介護施設で持ち込みによる感染の拡大を防ぐという観点からは、2)および3)の措置を厳しくとり、介護施設自体を半ばロックダウンすることは重要な対策であった。
厚生労働省が必要なアラートを発していたことは事務連絡の内容から確認できたが、では事務連絡は実際に現場に届いたのであろうか? 複数の施設に対してヒアリングを行った結果から、いずれの施設でも事務連絡の存在が認識されていたということがわかったのである。中には「報道で感染の拡大が報じられるのを見て不安に感じていたが、通知を読んで面会の謝絶等の対策を強化した」という話も聞かれた。2月24日時点では国内の感染者数は累計でまだ141人に過ぎず、この時期における現場の警戒感の高さを示すエピソードである。一つ一つの通知に目を通すのは日常業務の中では簡単ではなく、この話には大変驚かされた。
各国での措置の状況はInternational Long Term Care Policy Networkのレポートを通じて知ることができる。2月24日の事務連絡で示された内容と同様または近い措置が各国で取られた時期を追ってみると、イタリアでは5月初旬、ドイツでは地域によって異なるが3月下旬から4月、オーストラリアでは4月下旬、アジアでは韓国3月7日、香港3月27日、中国4月16日である[11]。3月から4月時点でもっとも感染者数が多かったのはヨーロッパおよびアメリカであるから、これらの地域と比較して日本での措置のタイミングはかなり早かったと評価できる。
次の問題は、厚生労働省の事務連絡が末端の施設にどのような経路をたどって到着するのかである。調べてみると、これには概ね2つの経路があったようである。一つの経路は県や市といった自治体を経由した場合、もう一つの経路は各地の老人保健施設協会など、いわゆる業界団体を経由した場合である。ここでは適切な情報伝達のネットワークが維持され、さらに情報が適切に理解されたことが、施策の実効性を高めたことを強調したい。
さて実務的な対応が順次取られていた一方で、政治的にはこの頃新型コロナウイルスの法的位置付けに関する議論が繰り広げられ、法律がようやく成立したのは3月13日のことである。その後は緊急事態宣言、補正予算における対応などの目立つ対応が取られるようになった。法改正を伴わなくてもできる効果的な対策は2月初旬から順次実行され、ここで示した事例からは危機管理におけるルーチンの重要性が示唆される。
インフルエンザ対策が行き届いている一つの理由は、介護保険関係の施設(介護老人福祉施設、介護老人保健施設など)では感染対策委員会の設置が義務であり、それが機能しているからである。介護保険制度が導入されたのは2000年で、当初から各施設では感染対策委員会を置かなければならない。これらの施設に対して自治体は監査を行っており、感染対策委員会の活動も監査の対象である。介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)における感染対策の状況を経年的に把握できる調査の結果を見ると、リスクマネジメント委員会で併せて担当している施設も含め、感染対策委員会を設置している施設の割合は99.5%で、確認できる平成16年の67.8%から増加している。また、感選択作マニュアルを持っている施設の割合は99.6%、感染対策の実施状況や効果を確認している施設の割合も71%に達した[12]。
日本の施設の感染対策が国際的に見て優れていると言い切るのは難しいが、以前に大阪で行われた調査を参照すると、インフルエンザや消化管感染症の発生は低く抑えられている(ただし、著者はこの状況を慎重に評価している)[13]。介護保険制度の導入時にどのような経緯で感染対策委員会の設置が要件になったのかは今後調べたいが、20年前の制度導入時の準備が結果的に感染の拡大防止に貢献したのではないだろうか。ちなみに法令で感染対策委員会を設けることが要求されていないサービス付き高齢者住宅、有料老人ホームに対しても行政の監査は入り、感染対策に対する指導も行われるという。
その他の制度的な理由もいくつか提示する。新型コロナウイルス対策の成功事例と見做される台湾では、SARSの経験が指揮命令、医療施設や人材の確保、サーベイランス体制、リスクコミュニケーション等の面で今回に活かされた(大臣と知事の発言が矛盾する、知事と首長の発表をめぐる混乱が生じるというのは、2003年に台湾で起きたことと同形の問題である)[14, 15, 16]。また韓国ではMERSの経験が活かされ、度々報道されたような膨大な量の検査の実施にもつながった[17, 18]。日本はSARSやMERSの影響は受けなかったが、新型インフルエンザへの対応として新型インフルエンザ特別措置法が設けられ、法に基づいた訓練、啓発は継続的に行われるようになった。
施設の規模つまり入所者数は施設内での感染拡大の危険因子である。ナーシングホームを対象とした初期のアメリカの研究では、施設規模が有意な死亡リスクとして示される[19]。この点で日本の介護施設の規模が小さかったことも幸いした。さらに介護保険施設では運営主体が非営利組織であったことも、行政監査に対する対応、業界団体の形成、情報流通という点で良い方向に働いた遠因である。
介護施設内の問題とは別であるが、筆者が行ったヒアリングで問題点として語られたのは地方分権の弊害である。新型コロナウイルス感染症の患者数は、他の指定感染症と同様「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症法)に基づいて保健所から国立感染症研究所に集約される。1997年の地域保健法(かつての保健所法)の改正により、都道府県のほか政令指定都市、中核市なども保健所設置市として位置付けられた。したがって、現在では都道府県に患者発生情報が直接集約される構造になっていない。都道府県がその地理的な圏域内の患者発生動向全体を把握しようとすれば、政令指定都市や中核市に対して問い合わせを行う必要がある。患者発生の公表に関する県と市の行き違い、陽性者数の集計に日数を要したことには構造的な背景がある。
この弊害は情報の集約だけに止まらない。検査、疫学調査、相談、医療機関などの調整と支援も保健所を単位として行われるため、やはり都道府県単位の広域的な対応を難しくした。地方圏でも最も人口が集中する県庁所在地が保健所設置市であるため、足下と県庁で衛生行政の執行に関して多々困難が生じたのではないだろうか。
阪神淡路大震災時や東日本大震災のような地震による災害、さらに最近増加している豪雨による災害を経験して、徐々に対応が良くなってきた。災害から学んだことが、次の災害に活かされている。
新興感染症も、災害と同じく非定形の出来事である。このような事象に際して、ややもすれば日本人は事前の備えを軽視し、政治的な判断や対応を求めすぎる傾向があるように思える。しかし、行政と施設の現場でできる対策を適切に運用しことが、今回、介護施設における感染の拡大を防止し、重症化リスクの高い高齢者を守ったのではないか。その点で、危機管理のための社会インフラがある程度備わっていたといえる。一方でPCR検査の体制、リスクコミュニケーションなどに関しては、SARSやMERSを経験した台湾や韓国は過去の経験を活かせたが、類似の経験がない日本は満足な対応を取ることができなかった。
感染の拡がりに対する対策のレベルやアラートの考え方、東京都や大阪府での専門病院の開設、軽症者の療養施設の設置、情報収集や共有、医療用の防護具などの供給、もちろん一般人の生活様式の修正といった経験は、今後、別の新興感染症が発生した時にも役立つはずである。新型コロナウイルス感染症の第三波、第四波、他の新興感染症に対して確実に対応できることは、事前に準備できたことだけである。
本稿の作成にあたりこれまでにヒアリングに応じていただいた神奈川県、各施設の方々、共同研究者のマルガリータ・エステベス・アベ(シラキュース大学)、議論に参加してくださった東京大学未来ビジョン研究センターのメンバーに感謝いたします。本稿で述べたことは著者自身の考えを示したものであり、学術的には仮説を提示した程度にとどまります。ここで提示した仮説は継続して検証しますので、ヒアリングなどにご協力いただける施設、組織の方はご連絡ください。
本稿では、高齢者が居住する施設一般を「介護施設」と記載しましたが、国内では介護保険制度で位置づけられるものから高齢者向けのサービスが付帯された賃貸住宅のように幅広い類型の施設があり、それぞれの制度、統計で対象とする範囲は一致しません。また国際的にも幅広い類型があり、直接の比較には難しい点もあることを付言しておきます。